【1993年の小沢一郎・連載第4回】内閣不信任決議案可決により「五五年体制」の壁にヒビが入り始めた。そしてついに、小沢が壁を貫く最後の一手を打ち出す──。ジャーナリスト・城本勝氏がレポートする。(文中敬称略。第1回から読む)
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二百四十
第四十回衆議院議員総選挙は、一九九三年七月一八日に投票が行なわれた。宮澤内閣に対する不信任決議案が小沢一郎・羽田孜ら自民党議員の大量造反で可決されたことを受けての総選挙である。
その夜私は、渋谷のNHK放送センターの特設スタジオに置かれた開票速報本部にいた。反応取材の担当だったが、各党の消長が明らかになるにつれて、手元の衆議院手帖に書かれた数字のほうが気になり始めていた。
「240 230 220」
一週間前、紀尾井町の小沢の個人事務所で、私とある新聞記者の二人で小沢から聞いた数字だ。
「自民党が二百四十議席を超えたら自民党政権が継続。こっちはお休みだ。逆に二百二十を切れば非自民政権で決まり。二百二十から二百三十の時が面白い。ここが一番の勝負どころだ」
「どの数字に近づきそうですか」
と尋ねた私たちに小沢は、
「こういう時の自民党は強い。社会党が踏ん張ればいいが、今の様子だと厳しいかもしれん。選挙はいつも面白くなるもんだ」
と話していた。
スタジオのモニターを見ると現時点で自民党は二百二十三議席だが、追加公認で二百三十には届きそうだ。
「小沢の予言が当たるのか」と私は思った。
新党ブームの強烈な追い風に乗って羽田派が衣替えした新生党は、五十五議席と躍進した。公明、民社、社民連も堅調だ。しかし、社会党は七十議席と、五五年体制以来最低の議席に落ち込む惨敗。その他の非自民系を加えても、ざっと二百十議席余りだった。
一方、新党ブームの中で細川護熙がたった一人で立ち上げた日本新党は三十五人、不信任決議案が可決された後に発足した武村正義の「新党さきがけ」は十三人を当選させていた。
自民党を超えて政権を得るには、この二党を味方に付けることが欠かせない。
二つの党をどう取り込むか、小沢のことだからもう策を練っているだろうと私は考えていた。各党ともあと数日は、選挙の後始末で忙しいから数日後か、いや小沢のことだから、二、三日後には動き出すにちがいない。一日休んで明後日からが勝負だ。六月に入ってからほとんど休みも取れていないし、一日くらいゆっくりしてもバチは当たらないだろうと思っていた。
しかし、またも小沢は待ってくれなかった。