「無事に選手を集める」ところから試合が始まる
小学生の頃から自宅に引きこもり、児童精神科に通うと「うつ病」と診断され、小児科病棟に設けられた院内学級で小学時代を過ごしたという。そして、中学入学後から野球を始めたものの、精神安定剤や睡眠導入剤が手放せないほど薬に依存している状態が続いた。彼こそ、前述したオーバードーズで緊急搬送されたことのある生徒である。
イトウ君にとって、スタメン出場はこの日が人生初だった。その緊張のあまり、前夜は睡眠導入剤を飲むようなことを話していた。
石田監督は、イトウ君の部屋をドンドンと力強い拳でノックし、「おい、イトウ! 起きろ」とフロア中に聞こえる声で起こそうとした。それでも部屋の中からは物音一つしない。その場にいたすべての人間が、最悪の事態を覚悟した。
もはや最終手段しかない。ホテルからカギを借りて、部屋に突入した。すると亀のように丸まったイトウ君がいた。石田監督が声を荒らげてイトウ君の身体を揺する。
「おい、イトウ! 起きろ!」
すると、イトウ君は目を覚まし、みなが安堵のため息をついた。
高校球児が、夏の大会の当日に寝坊する。そんな現実は初めてだった。その後14年間、高校野球の取材を続けていても同じような話を聞いたことは一度もない。
わせがくの監督らは、プレイボールより前に、まずは試合当日に無事に選手を集めることから戦いが始まっていた。
ふつうの高校野球部であれば、下級生にイトウ君のような問題児がいたら、上級生が咎めたり、同級生が戒めたりしてもおかしくない。だが、わせがくではやんちゃをして、金髪・ロン毛の生徒が、イトウ君のような生徒を小馬鹿にしていじめたりするようなことは皆無で、むしろ温かい目で見守り、彼が問題を起こして停学処分になった時も、野球部に帰って来るのを心待ちにしていた。当時からわせがくの野球部は試合ができるギリギリの人数しかいなかったため、1人でも欠けたら試合ができなくなる。それをみんなが共有し、支え合っていた。
強豪野球部からドロップアウトしてきた球児や、心に病を抱えて学校に行けなかった過去を持つ球児にとって、野球部と、野球のグラウンドだけが唯一の居場所だからこそ、彼らはたとえ試合に大敗しても、野球を続けていた。
あれから14年――千葉学芸との試合は結局、「0対82」で決着した。
さらに1ヶ月あまりが過ぎ、甲子園球場では全国高等学校選手権大会の準決勝が行われていた。第1試合では宮城の仙台育英が、同じ東北勢の福島・聖光学院を18対4の大差で下し、決勝に進出した。その試合を見届けた私は十数年ぶりに、わせがくの当時の監督だった石田先生(41、成田高校出身)に連絡を入れた。彼は現在、多古本校のセンター長を務めていた。野球部の指導からは離れているものの、経営側の立場で今も支えている。そして、千葉学芸との試合の日は、もちろん、会場だった長生の森公園野球場に足を運び、全校生徒と共に声援を送っていたという。
「以前のように、強豪校をドロップアウトしてきた生徒はほとんどいません。しかし、わせがくに通ってくれる生徒の多くが、不登校や引きこもりの問題を抱えている生徒であることは変わっていません」
0対82の試合で何が起こっていたのか。選手はいかにして戦ったのか。やはり甲子園球場で繰り広げられる高校野球とは異次元の現実があった。
(後編につづく)