高卒ドラ1投手の才能が見事に開花した時代
1993年オフのFA制度導入以降、補強でチームを構築してきたイメージの強い巨人だが、若手の育成に定評があった時代もあった。
「FAも逆指名ドラフトもない1980年代、巨人は高卒のピッチャーを見事に大成させていました。10年間で槙原寛己、斎藤雅樹、水野雄仁、桑田真澄、木田優夫、橋本清と6人の高校生投手をドラフト1位で指名し、いずれも戦力になりました。鳴り物入りで入団しても、プロで成功する選手は一握りです。特に高校生の場合、先々まで見通せないケースが多い。当時の巨人は育成の上手な球団でした」
三本柱と呼ばれるようになった槙原は159勝56セーブ、斎藤は180勝11セーブ、桑田は173勝14セーブと3人で通算512勝81セーブを挙げている。水野は4年目に先発で10勝を挙げ、その後はリリーフとして活躍。木田も4年目に12勝と開花して奪三振王に輝き、先発も抑えもできる貴重な戦力だった。橋本は長嶋茂雄監督が復帰した1993年に『勝利の方程式』の一角として52試合に登板。翌年の日本一に貢献した。
「斎藤をサイドスローに変えた藤田元司監督、鬼軍曹と呼ばれた須藤豊二軍監督、桑田真澄や木田優夫の成長を促した宮田征典投手コーチなど指導者も揃っていましたし、スカウトの眼力も見逃せません。高卒の投手を長い目で段階的に育てていくという球団の方針がしっかりしていた。それらに加え、ベテランキャッチャーの存在が光りました」
1980年代、巨人の扇の要は山倉和博だった。1978年、早稲田大学から入団した山倉は1年目に開幕スタメンを勝ち取り、3年目からレギュラーに定着。1987年には巨人史上初の捕手でMVPを獲得した。
「巨人は山倉という不動のレギュラーがいても、トレードでキャッチャーの補強を欠かしませんでした。1986年には近鉄から有田修三、1989年には中日から中尾孝義という経験のあるベテランを取った。この2人は強気のリードで若手投手を飛躍させました」