バットを逆さまに持って敬遠に抗議した
三冠王に輝いた野村克也も1962年から6年連続で本塁打と打点は1位だったが、打率も1位となって三冠王になったのは1965年のみ。そのシーズンで野村とタイトルを激しく争ったのは阪急のスペンサーだった。開幕直後から安打・本塁打を量産し、野村より三冠王の可能性が高かった。当時、スペンサーと同じ阪急のエースだった350勝投手・米田哲也が振り返る。
「当時のパ・リーグの各球団には、外国人のスペンサーに三冠王を獲らせるなというムードがあった。特にノムさんを大きく引き離していた本塁打が脅威となっていたようで、そのため夏頃からスペンサーとの勝負が避けられるようになった。小山(正明)さんがエースだった東京オリオンズ戦では8打席連続敬遠され、9打席目に敬遠の球を打ったこともあった。
特にノムさんがキャッチャーだった南海戦では勝負をしてもらえなかった。そうやって1か月近く本塁打を打てなかったことでノムさんが逆転。終盤の10月3日の南海戦でスペンサーは抗議するようにバットを逆さまに持って打席に入ったが、それでも南海は敬遠したからね。その2日後にスペンサーは交通事故に遭い、11試合を残して戦線離脱してしまった。それでノムさんの三冠王が決まったわけです」
タイトル争いで敬遠合戦というのはプロ野球では定番だった。前出・米田も「ベンチの指示となれば敬遠は仕方がない。タイトル争いの1位と2位では価値はまったく違って、1位でないと意味がないですから。チームメイトのために協力するのは仕方がないこと」と話す。その後、阪神に移籍した米田だが、「広島の山本浩二と中日の井上弘昭が首位打者を激しく争っていた時、浩二の親友だった(阪神の)キャッチャーの田淵(幸一)が“井上と勝負をしないでほしい”と言ってきたことがある。“それはできない”と断わったが、手元が狂って死球になってしまったことがある。本人は当たっていないと審判に猛アピールしていましたが(苦笑)」という。