♦食糧配給が止まり、家族離散
その人生は壮絶だ。1985年、北朝鮮の北東部・咸鏡南道に生まれる。両親、姉3人、弟の5人兄弟。父親が働き、政府から配給される食糧を受け取る日々だった。ところが、9歳ごろになって食糧の配給が減り、しばらくすると完全に途絶えた。近所で餓死者が続出し、キムさんの母親、3人の姉が亡くなった。「その時は家族が亡くなって悲しいという感情がなかった。自分もあの世に行くんじゃないかと思ったし、先に家族が逝ったという感覚でした」と振り返る。家族を失った喪失感に苛まれたのは、脱北した後だったという。母や姉たちのことを思い浮かべ、一人で何度も涙を流した。
2つ年下の弟と路上生活を送り、親戚から食糧をもらえない時は物乞いをした。畑で農作物を盗んだこともあったという。寝床もなかった。氷点下になる冬は薄着で寒さに震えていたという。駅や建設現場の地下が寝る場所だった。11歳の時、親戚の家に引き取られて弟と生き別れに。感情を抑えて振り返るキムさんの声がこの時にうわずった。「生きるためには仕方がなかったけど、弟がその後に生きていないと聞いて……どうにかできたのではないかと今でも考えてしまいます」と声を落とす。
親戚の家では寝床があり、飢えの心配も薄れたが生活は苦しかった。朝から晩まで働き、学校には通っていない。18歳で1度目の脱北を目指したが、中国との国境を隔てる川を渡る直前で失敗する。北朝鮮と中国の国境にまたがる火山・白頭山のふもとにある留置所に送られると、食事と睡眠、わずかな休憩時間を除く16時間以上正座したまま、動くことが一切許されなかった。「白頭山は(冬は)マイナス20度ぐらいになります。暖房もないので寒い。2~3日正座していると足が凍って感覚がなくなります。横になると足が痛くて眠れない。シラミもいてかゆいですが、少しでも動いたら看守に注意されたり、罰を受けるので動けません」。この留置所で1か月半を過ごし、親戚の家に戻った。23歳で2度目の脱北をした時は、文字通り命がけだった。
北朝鮮から対岸の中国に移動するために川を渡る。上流で水の流れが激しい。一番深い所で胸ぐらいまで水が押し寄せた。「水の冷たさは感じませんでした。緊張していました」。国境警備隊に見つかったら命の保証はない。生きるか、死ぬか──恐怖と不安で極限の精神状態だった。中国に渡ると、2~3時間歩き続けた。車で移動して親戚の家に身を寄せると、東南アジアを経て韓国へ入国。先に脱北した父と再会した。韓国で4年間過ごし、日本での生活に至る。