著名人が自ら、ヤクザの子であると明かすことは珍しい。まして、それが文学者となればなおさらだ。
詩人の伊藤比呂美氏は、父のことを調べているうちに暴力団取材の第一人者であるフリーライターの鈴木智彦氏の著書『サカナとヤクザ』にたどり着いた。その第四章『暴力の港・銚子の支配者、高寅』には、「高橋寅松」と「伊藤一彦」という博徒の貸元と幹部が登場。実は伊藤氏にとって、「高橋寅松」は伯父で「伊藤一彦」は父だという。
伊藤氏からSNSを通じてその事実を知らされた鈴木氏が、彼らの足跡を追った。(文中敬称略)【前後編の後編。前編から読む】
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高寅は14件の容疑で起訴され、懲役7年の判決が下された。控訴審では懲役4年、最高裁に上告したところ講和条約の恩赦と未決通算(判決までの勾留日数)で3年7月に減刑された。高寅が突然上告を取り下げ、千葉刑務所に下獄したのは昭和29年3月15日である。今のようにヤクザが仮釈放をもらえず満期出所したなら、娑婆に出たのは昭和32年の10月だ。
伊藤比呂美が生まれた昭和30年、父はすでに堅気だった。
「ヤクザと決別しても、高寅さんの奥さんは姉だし交流はありました。銚子に行けば周囲から『兄貴』と呼ばれ、下にも置かないもてなしだったです。円満に堅気になったのでしょうけど、なぜ辞めたのか訊いたら『博奕が嫌いなんだ』と答えた。網元たちがいかさま博奕で型にはめられ、身上を失う様を間近で見ていた父は、ヤクザの汚さが耐えがたかったのでしょう。
高寅さんのことは『あの人は下の人間を守らない』と評していた。裏切られたという思いがあったはずだけど、あの事件(『百番』経営者への傷害)が理由かは分かりません。
私が小さい頃、ダブルのスーツを着た父が、飛行場か駅か分からないけど、黒服の男たちがずらりと並ぶ場所に連れて行ってくれたことがあるんです。そこにはおじさん(高寅)もいて『ひろみちゃん、来てくれたのか』と小遣いをくれた。けっこうな額だったからか、父は「これは汚いお金だから使っちゃおうか」と言い、デパートで大きなテディベアを買ってくれました。
高寅さんの養子である娘さんは、私たち家族が暮らしていた板橋の家から理容学校に通ったんです。お金持ちだから高価な贈り物をもらうけど、両親は高寅夫妻をあまりよくは言わなかった」
高寅が出所した昭和32年頃、伊藤は2歳である。鮮明な記憶が残る年齢ではないから、テディベアの一件は高寅の放免祝いとは違うだろう。昭和30年代は暴力団の全盛期で義理事は頻繁にあった。高寅も20年代終わり頃に双愛会(現在は七代目体制。指定暴力団)を旗揚げし初代会長を務めている。前身である魚水会は「水魚の交わり」が由来だったが、幹部からは「漁師や漁協じゃああるまいし」と評判が悪かったらしい。