高寅は“蒔田の殿様”と呼ばれた笹田照一と兄弟分だ。笹田は港湾荷役業界で絶大な力を保持していた鶴酒藤兄弟会の重鎮で、山口組二代目の山口登とも義兄弟である。
「父が『叔父貴』と呼んでいた人が二人います。ひとりは『横浜の親分』(笹田)で、もうひとりは田岡さん(山口組三代目・田岡一雄)だと思うんです」
私の古巣である『実話時代』の2000年5月号で、高寅一家二代目である小野岡孝夫(故人)をインタビューした際、銚子の海水浴場で水遊びをする田岡と高寅の写真を借り、雑誌に掲載したことがある。
田岡は自身の親分である山口登の兄弟分たちと親密な関係を維持した。笹田系列の高寅とも昵懇だった。
色褪せた刺青
堅気になった父は、両親が住む愛知県瀬戸市で焼き物工場を手伝った後、昭和25年8月に東京・板橋に移り住み、グラビア印刷会社の工員となった。他人との間に壁を作り、激高しない父だが、背中には決して消せない刺青が彫られている。
「清水次郎長の子分・桶屋の鬼吉の弟子か孫弟子が彫師だったようです。亡くなったときも納棺師さんにお願いし、背中を見てるはずだけど、色褪せていた記憶しかない。子供のときから母に『お父さんの背中の絵は、絶対他人に見せちゃ駄目だよ』と言われ続けました。母も刺青があり、外科処置で消してあった。ケロイド状になった皮膚は、空襲で火傷したと説明し、少し離れた銭湯に通った。うちに風呂を作ったのは、銭湯で父の背中を見た子供たちが噂をしたからです。
それからも、うちには友達を呼べなかったし、出かけても日帰りでした。銚子の海水浴だけが例外です。高寅の奥さんが海の家を経営してて、唯一、そこでだけ父は長袖を脱いだ。周囲に刺青ばかりだと父の背中も埋没して目立たないんです。
つかず離れず付き合っていたのだけど、ある時点になって『もう姉さんとは付き合わない』と言いだし、お姉さんの葬儀にも出席しなかった。熊本に引っ越し、介護生活となってから『あんたが詩人として世に出そうになっていたから、ヤクザの身内がいてはまずいと思って切ったんだ』と聞かされました。生きにくさをはじめ、私はいろいろな精神的問題を抱えてきたけど、おそらく父の秘密を隠してきたことが大きい。隠さねばならないことがあると精神は健全でいられない」