もちろん歴史上の人物に毀誉褒貶はつきものだが、弘前藩祖・津軽為信の場合は、それが特に激しい。青森県西部では津軽統一を一代で成した英雄、かたや青森の東側では裏切り者の極悪人扱いさえされてきたのだと、『津軽の髭殿』の著者・岩井三四二氏は語る。
「実は為信に関しては以前、『人を呪わば穴ひとつ』という短編を書いたことがあって(『はて、面妖』所収)、ずっと長編にしたいと思っていました。元弘前藩側と元南部藩側の評価が両極端すぎるのですが、最近出た『青森県史』ですら両論併記。だったら創ってもいいのかなって、覚悟がやっと決まった感じもあります」(岩井氏、以下同)
時は戦国末期。それこそ津軽という地名がどこからどこまでを示すかも曖昧で、〈岩木山の見えるところはみな津軽だ〉と鷹揚に語られた時代、17歳の弥四郎=為信が、〈いずれはこの美しく豊かな津軽をわがものにする〉〈奥羽の地を奪い、さらには天下に覇を唱える〉と大志を抱き、まずは大浦城主の娘〈おうら〉の婿となるまでが、第一章「狸の婿入り」では描かれる。
狸というだけに当然策略含み。彼は英雄かはともかく、稀代の戦略家ではあり、それでいて今なお髭殿として愛される、〈憎みきれない不良大名〉の一代記である。
「15年前に書いた短編も、元々は為信とおうらが恋愛結婚だったという話を何かで読んで調べてみたら、面白いエピソードが山盛りだったんですよね。
ベースにしたのは『津軽一統志』という、いちおう弘前藩が享保年間に幕府の命で編纂した官撰史書ではあるんですが、もしやこれ、津軽人特有のユーモアで、膨らませて書いてません? と思うくらい面白いんですよ(笑)。それを『ホントかなあ』と思いつつ事実は事実として押さえ、小説として膨らませるべきは膨らませながら、為信の59年の全生涯を書いていきました」
学生時代から読書は専ら歴史物を好み、東芝に就職後も「いつか独立するなら作家、それも歴史物だと第一感で思いました」と言う。
「要するに歴史って物語の塊で、しかも実際に起きたことという保証があるから、安心して楽しめるんですね。私はその事実に肉付けするのが苦手で、実はそこが最も弱い部分なんですけど、物語が本物ならまだ大丈夫かなと(笑)。とにかく私としては今回の為信に限らず、『棺を蓋いて事定まる』といいますか、『こんなふうに生きたらこうなりました』としか言い様のない人生や物語の塊を、皆さんに提示したいということです」