夏の甲子園ではこれまで数多くのスターが生まれてきた。怪腕や豪打でチームを勝利に導くヒーローがいれば、観る者が言葉を失うような負け方をして語り継がれる「悲劇のヒーロー」もいる。1998年の夏、サヨナラボークで敗退した宇部商業のエース・藤田修平もその一人だろう。藤田が甲子園への思慕を明かした。(文中一部敬称略)
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80回目の記念大会となった1998年の夏は、春に続く全国制覇を遂げた横浜(神奈川)の松坂大輔(元西武ほか)を筆頭に、数多のヒーローを生みだした歴史的大会だった。その中でひとり、悲運のエースがいた。豊田大谷(愛知)と対戦した宇部商(山口)の2年生左腕・藤田修平だ。
2対2で迎えた延長15回裏、無死満塁という窮地に、2ストライク1ボールのカウントから、この日211球目の投球モーションに入るも、捕手のサインをもう一度確認しようと思ったのか、動きを止めた。しばらくの間(ま)のあと林清一球審が「ボーク」を宣告し、突然、試合は終わった。
「なぜ自分が動きを止めたのか、本当のところはわからないんです。ヒットと守備の乱れがあって無死二、三塁から、満塁策をとりましたが、まだまだ僕は勝負を諦めていなかったし、あの場面は三振だけを狙っていた」
呆然と立ち尽くす――この言葉はまさしくこの日のゲームセットの瞬間の藤田を形容するため用意されたかのようだった。100年以上の高校野球の歴史において、後にも先にも、サヨナラボークで勝負が決したのはこの試合だけだ。
当時は捕手のサインを二塁走者が盗み見て、打者に球種やコースを伝達する行為が認められていた。それゆえ、通常は「シンプルすぎるぐらいにシンプルなサイン」(藤田)だった宇部商バッテリーのサインが、二塁に走者を背負った時だけは複数のサインを出して盗まれないように警戒していた。
「おそらく2番目か、3番目に出したサインが次に投げる球種だった。あのとき、自分の中では組み立てができていて、次に投げたいボールが決まっていたんだと思います。はっきりしたことは言えないのですが、おそらくその球種のサインが出たから投球モーションに入ったところ、まだ捕手のサインが続いていた。それで無意識のうちに動作を止めてしまったんだと思います」
◆林球審は正しいジャッジをしただけ
あの夏、藤田は左ヒジの調子が悪く、山口大会の直前まで投げられないでいた。
「背番号をもらえるかどうかもわからない状態でした。ちょうど7月上旬から開幕直前まで、僕は大分にいたんです。練習にも学校にも来なくていいから、(ケガをした宇部商の選手が通っていた)温泉施設も併設した治療院で治療しろと指導者に言われていました。午前中は電気治療を受けて、午後は温泉に入って過ごしていましたね(笑)。山口に戻ると痛みは消えましたが、投げ始めるとやはり痛みが出る。だからあの夏は痛み止めの注射を打って試合に出場していました」