試合が行われた1998年8月16日はお盆にあたることに加え、第3試合には1回戦でノーヒットノーランを達成した鹿児島実業の杉内俊哉(元福岡ソフトバンクほか)と松坂が投げ合う好カードが控えており、宇部商対豊田大谷が行われた第2試合も4万9000人の大観衆で立錐の余地もなかった。
炎天下、210球を投じながら、突然、サヨナラ負けとなった。チームメイトや周囲のみならず、すべての日本人が藤田に同情し、ボークを責める者はひとりもいなかった。一方、極限状態の2年生球児にボークを宣告した林球審には批判が集まった。
「みなさんが僕に同情してくれて、美談のように語られていますが、悪いことをしたのは僕なんです。100%あれはボークで、林球審は正しいジャッジをしただけ。それなのに林球審が責められる記事をたくさん目にしましたから、僕は辛かったし、すごくお会いしたかったんです。『ああいうことがあっても、僕は大好きな野球を続けていますよ』ということをお伝えしたかった」
藤田と林球審は15年後、再会を果たす。福岡大学、そして社会人(軟式)でも野球を続けたことを藤田が告げると、林氏は小さな声で「感無量」と言い、涙を落とした。
◆息子も宇部商業に進学
藤田は現在、宇部市内で父親と一緒に内装会社を営み、福岡大時代に出会った妻と、一男三女の子供たちと暮らしている。
毎年、夏がやってくればメディアに取り上げられることの多い藤田だが、16年ほど前に生まれた長男にも野球をやらせたいと考えていた。
「僕から何も言わなくても、自分の息子なら、自然と野球をやってくれるだろうと思っていました。小さな頃からボールを転がして遊んだりしていましたが、ちゃんとキャッチボールをしたことが幼稚園生になるまでなかったんです。そこで、息子が5歳の時、近所の原っぱにキャッチボールをしようと誘うと、返ってきた言葉は『オレはゲームの方が好き』と……(笑)」
その直後にテレビ番組の企画で、作家の重松清氏と甲子園で対談することとなり、藤田は息子を連れて聖地に足を運んだ。
「僕自身の映像をテレビで見て興味を持ってはいましたが、甲子園に行った経験が息子を本気にさせてくれました」
息子は小学3年生の頃に小学校の野球部に入団し、本格的に野球を始める。それは藤田自身が野球を始めたタイミングであり、藤田は息子にも同じ道を歩ませようとした。そして、6年生の時に山口県でベスト4に進出。野球で勝つ楽しみを覚えていく。
「中学では部活で軟式野球をやるか、硬式のクラブチームに入るか悩んだんです。だけど、本人が『小学校の仲間と一緒にやりたい』と言いだしたのと、小学校時代の指導者の方が、息子が進む中学校でも外部コーチを務めることになったので、中学校で軟式野球をやることに決めました」