日本語を母語としないながらも、今は流暢でごく自然な日本語で活躍している外国出身者は、どのような道のりを経てそれほどまで日本語に習熟したのか。日本語教師の資格を持つライターの北村浩子氏がたずねていく。北村氏が働いていた日本語学校の卒業生で、現在は関西大学システム理工学部で助教を務めるアイエドゥン・エマヌエルさんは、「独自のフィードバック」で日本語表現を高めていたようで──【全3回の第3回】
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わたしたちが外国出身者の日本語を聞いて『ああ、うまいなあ』と思うのはどんなときだろう。発音がきれい、質問に的確に答えている、抽象的・専門的な語彙を使っている……そんな話者に対して『うまい』と感じるのではないだろうか。
うまいのは、すごいことだ。その一方で、外国語は『うまくなくてもいい』ものでもある。間違ったままたくさん話す人も大勢いる。言葉は道具なので、意味と意図さえ通じれば(この前提が成立することが何より大事なのだが)言葉としての機能は果たしていることになる。
具体的な例を示すと『この店、おいしくない』を『この店、おいしいじゃない』と言ったり、『昨日は暑かったです』を『天気が暑いでした』と言ったりする人もいる。そのような日本語で生きるのは決して悪いことではない。求める/必要とする言語レベルは人それぞれだからだ。
日本の大学院で学びたいという目標を持っていたエマさんは『生活の日本語』のさらに上を目指して言葉を磨いた。どのように『もっとうまく』なっていったのだろう。興味深い答えがもらえそうだと思いながら聞いてみた。