所轄署と県警本部の「意見対立」
「タマリって一体何だ?」──。捜査本部幹部は困惑した表情でこうつぶやいた。男性は転落によって負った頭部骨折を中心に肩や胸、腰の骨も折れ、顔には殴打されたアザがあった。車外でもみ合って突き落とされたか、殴打されて逃げる際に誤って落ちたとみられた。
乗車記録から24人目の客が犯人で、乗車場所から転落現場までは約60キロ。国道20号を西進し、約14キロ北上したところで被害に遭った。犯人は犯行後、タクシーを運転して八王子に舞い戻ったようだった。男性は通行人の通報で駆け付けた救急車で山梨県河口湖町(現・富士河口湖町)の病院に搬送された。この際、救急隊員や看護師が聞いたのが、意識の朦朧とした男性が喉から絞り出すように口にした「タマリ」というセリフだった。
地元ローカル新聞の10日付朝刊には「ナゾの言葉」との見出しが掲載された。地方テレビ局のニュース番組では事件を詳しく取り上げ、「目的地がどこかの“溜り場”だと知らせようとしたのでは」「犯人の特徴か名前につながる言葉じゃないか」、あるいは「“多摩美”の愛称で知られ、キャンパスを八王子に置く名門・多摩美術大学の意味では」などと侃々諤々の議論が交わされた。県警内部にも「何らかの思いが込められたダイイングメッセージだ」と推測する見方があった。
実際、筆者はタマリという言葉を耳にした人物の供述調書を読んだが、「何かを伝えようとしているようだった」といった趣旨の証言をしていた。転落現場は周囲に民家がポツポツとあるだけの寂しい山間部。事件現場となったのは偶然か、人目につきにくかったからか。
後者なら土地勘(捜査用語では土地鑑)がある犯人とみられた。当時大月市内外では、八王子方面からタクシーに乗り停車場所で「ちょっと家にお金を取りに行く」と言い残して帰ってこない無賃乗車事件が複数起きていた。いずれも深夜で、料金は2万円前後とみられ、無賃乗車をめぐり男性が犯人とトラブルになった可能性もあった。
だがこうした「見立て」を中心に据えた捜査方針は今回採用されなかった。地元を熟知する大月署はこの方針を主張したが、捜査1課が「見込み捜査は判断を誤る」として慎重な姿勢に終始したからだ。
確かに見込み捜査は冤罪の温床とも言われる。ただ、現場の所轄署と県警本部の意見対立の“芽”は事件前からあったと、ある県警幹部は筆者に当時、打ち明けていた。
大月署の最高幹部Aは刑事部で実績を積んだ昔気質の剛腕刑事として県警内で知られた人物。一方、捜査1課の首脳Bは知正派とうたわれ、若手の頃から捜査幹部候補として嘱望されていたエリート。2人は年齢的にも経歴的にもライバル関係にあると評されてきたというのだ。
事件解決より優先された人事をめぐる警察官同士の確執は、警視庁を舞台に長谷川博己が主演したドラマ『小さな巨人』や、横山秀夫の小説『陰の季節』が原作のドラマでも描かれている。