流産、失語症、適応障害
1993年、雅子さまは皇室に入られた。ハーバード大学、東京大学を経て外務省に入省したキャリア官僚という華々しい経歴は注目を集め、皇室に新たな風を吹き込む存在として大きな期待が寄せられた。
「国際親善は皇室の重要な柱のひとつです。雅子さまは、ご自身の経験を最大限に生かしたいとお考えだったでしょう。むろん、美智子さまも、皇太子妃として雅子さまがお力を遺憾なく発揮されることを望まれていたに違いありません」(前出・皇室記者)
しかし、雅子さまは程なくして、お世継ぎ出産のプレッシャーにさらされる。1999年には、予期せぬ形でご懐妊の兆候が報道され、精神的な負担がかかった結果、妊娠約7週目で稽留(けいりゅう)流産を経験されるといったこともあった。
「雅子さまの悲しみを最も理解されていたのは、ほかでもない美智子さまでしょう。
美智子さまも1963年に第2子の流産を経験されています。当時、美智子さまは皇室内で孤立した状態だったそうで、当時の宮内庁長官は流産の原因を“精神的な疲労”ではないかと明かしました。
お世継ぎ問題において皇太子妃にかかる尋常ではない重圧と、流産の苦しみを理解できるのはこのおふたりよりほかにいらっしゃいません」(皇室関係者)
2001年に愛子さまが誕生された後の2004年、雅子さまは「適応障害」の診断を受けて長い療養生活に入られることになる。陛下が「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」とご発言されたことからも、精神面において過度な負荷がかかっていたことは想像に難くない。
「美智子さまも、1993年10月に御所の応接室で倒れられ、その後、いわゆる心因性の失声症になられた経験があります。民間出身だからこその精神的な負担を、美智子さまはご自身でも経験されている。だからこそ、雅子さまの心身を強く案じられたのでしょう」(前出・宮内庁関係者)
民間出身で「皇太子妃」と「皇后」を経験されたのは、皇室の長い歴史のなかで、美智子さまと雅子さま、たったおふたりだけである。紆余曲折ありながらも、両者はお互いを慮られてきた。
しかし、双方の深慮の結果、当時の天皇家と東宮家は期せずして“断絶状態”だと捉えられることもあった。
「当時は、皇太子妃の雅子さまより、皇后の美智子さまのご身位が上ですから、雅子さま側が美智子さまへご挨拶などに行かれるものでした。
ところが、体調を崩されたことにより公務ができない状況で、申し訳なさを感じられたからか、雅子さまが私的に皇居を訪れる機会は多くありませんでした。美智子さまももちろん、雅子さまを気遣い無理強いはされませんでした」(前出・宮内庁関係者)
頻繁にお会いすることはなくとも美智子さまは雅子さまのことを常に気にかけられた。
「美智子さまは、雅子さまの意思の強さや責任感の強さを理解されており、たびたび会見やお誕生日に際して公表される文書で雅子さまに“エール”を送られていました。また、時にはご身位にかかわらず、自ら東宮御所へ足を運ばれることもあったようです」(前出・皇室記者)
いずれは公務に復帰して、皇后として晴れやかに活躍してほしい──そんな美智子さまのお気持ちに応えるかのように、雅子さまは徐々に、しかし確実に、復調の道を辿られてきた。
2019年、御代がわりに関連する儀式を無事に全うされ、美智子さまは「上皇后」、雅子さまは「皇后」となられた。祝賀パレードで、雅子さまは何度も目に涙を浮かべられた。
「歓迎ムードのなかで雅子さまは、国民から受け入れられたと感じて感極まられたのかもしれません。同時に、皇后となるまで、見守り支え続けてくださった美智子さまに対しても、感謝の思いが湧き起こったことでしょう。
一方、美智子さまも、雅子さまの病状が無事に儀式と行事を遂行するまでに快復されて、肩の荷が下りたのではないでしょうか」(前出・宮内庁関係者)
“平成流”を蔑ろにできない
生前退位は、皇室の歴史上で前例のない出来事であり、当初は少なからず混乱もあった。
「毎年発行される皇室カレンダーで、両陛下より先に上皇ご夫妻が掲載されていたり、天皇ご一家に先立って上皇ご夫妻がご静養に行かれたりと、“順番”をめぐって物議を醸すことがありました」(前出・皇室記者)
とはいえ、美智子さまは「次代に委ねる」というスタンスであられるという。
「平成の頃、天皇家にお仕えした侍従職のうち、ほとんどのメンバーは上皇職に繰り上がりました。新天皇皇后の周りに平成の皇室を支えたメンバーを残さなかったのは、“自分たちに忖度することなく、令和流の皇室を作り上げてほしい”というご配慮もあったでしょう。
当初は批判されることもありましたが、美智子さまは“平成流”を貫いて確立されましたから、雅子さまにも期待されているのかもしれませんね」(前出・皇室関係者)