日米開戦を最終的に決断した当時の内閣総理大臣東條英機も、こんな戦争を始めたらひょっとしたら多大の犠牲が出るかもしれない、という危惧は頭の片隅にはあっただろう。しかし、結果的には「英霊に申し訳ないから(英霊の死を無駄にすることになるから)戦争をやる」ということになり、三百万人の犠牲者を出してしまった。
そして現在日本は、北朝鮮のミサイルの脅威にさらされている。万一それが撃ち込まれたら最低でも数万人の犠牲者は出るはずなのだが、そういうことを無視しても「平和憲法」を守れという人がいまだにいる。なぜそんなことになるかと言えば、歴史学者が日本人の信仰をまったく把握しておらず、歴史教育にもそれが盛り込まれていないからだ。
日本民族にはいま述べたような傾向があるということを、せめて高校の日本史あたりで学んでいればこんなことにはならないはずなのだが、現状はいま述べたとおりだ。私は歴史家として、この状況をなんとかしなければと常に考えている。
さて、第一次世界大戦において日本がドイツに勝利した直後に話を戻すと、日本はまさに「十万の英霊、二十億の国帑」を費やして獲得した「満蒙の特殊権益」を、さらに拡大する絶好のチャンスだと捉えたのである。じつは、欧米列強に数十年遅れて植民地獲得レースに参加した日本の獲得した権益は、欧米列強の獲得したものにくらべて期間が短かった。
前にも述べたが、ドイツが宣教師殺害事件を逆手にとって獲得した膠州湾租借権の期限は九十九年である、つまり、予定では一九九七年までだった。イギリスが一八九八年に獲得した香港(正確には九竜半島北部)の租借権も九十九年で、これは予定どおり強行された。
これに対して日本が獲得した権益は、南満洲鉄道については一九三九年まで、遼東半島の統治については一九二三年までだった。この時点で「あと十年も無い」のだ。ロシアから奪ったものであるのと、イギリスやドイツが奪った相手は清帝国であったのに対し、この時点では相手は中華民国(以下「中国」と略す)に代わっていたこともある。
いずれにせよ、日本はせっかく「十万の英霊、二十億の国帑」を費やして獲得した特殊権益を「絶対守らねばならぬ」のに、このままでは香港などより遥かに早く期限切れで消滅するとあせっていた。だから、日本人が袁世凱軍に殺された南京事件(一九一三年)に乗じて、「ドイツのように軍を派遣して圧力をかけ利権を延長しろ」などという意見が出され、これを煽った東京毎日新聞の影響もあったのだろう、穏健派の外務官僚阿部守太郎が右翼の壮士に暗殺されたのだ。
ただ、いくらなんでもそれはやり過ぎだという意見が国内では強かった。前にも述べたように、犬養毅のような政治家が「火事場泥棒は止めるべきだ」と警鐘を鳴らしたこともあり、さすがに日本も「膠州湾事件のマネ」まではしなかった。そもそも相手は頑迷固陋な清帝国では無く、中国なのである。