セリフの「華」はなんと言っても啖呵や。とくに女優が切る啖呵には格別な味がある。鬼龍院花子(夏目雅子)の「なめたらいかんぜよ」もそう。脚本家は啖呵が勝負やねん。啖呵は相手と刺し違える覚悟で切らせなきゃならない。だから、啖呵はいつも命がけで書きました。『極道の妻たち』シリーズ(1986年~)の啖呵はその真骨頂や。
「あほんだら、撃てるもんなら、撃ってみい」(第一作)
「うちら、血の一滴が枯れるまで戦うしな。虫ケラだと思って舐めてたら、その首飛ぶかもしれまへんで」(第二作)
「わてらの惚れた腫れたは、タマの取り合いや。極道の女やったら、腹くくって、もの言いや」(第三作)
岩下志麻さん、十朱幸代さん、三田佳子さんが切った啖呵はいま聞いても惚れ惚れする。最近は規制がうるさく際どい内容や台詞は敬遠されがちやけど、女優の啖呵はそれを突き抜ける力がある。
私の母親は大阪の町工場で真っ黒になって働き、病弱の私を命がけで守ってくれた。女は強いよ。人はみんな女から生まれて来るんやからね。女の強さと怖さ、そして優しさ。『極道の妻たち』では、女優の口を借りて、これらを存分に表現したつもりです。
いま、『極道の妻たち』を復活させようと、私が生まれた大阪を舞台に、ズブズブの大阪女を一杯出して『令和版 極妻』を書いている。『極妻』なら、現在も通用する。コンプライアンスでがちがちに縛られた閉塞した令和のドテっ腹に風穴を開けるドラマと啖呵を毎日、考えている最中や。
【聞き手】
伊藤彰彦(いとう・あきひこ)/1960年、愛知県生まれ。映画史家。慶應義塾大学文学部卒。主に映画人の修羅と栄光を描いてきた。著書に『仁義なきヤクザ映画史』(文藝春秋)、『なぜ80年代映画は私たちを熱狂させたのか』(講談社)など。
※週刊ポスト2024年6月7・14日号