終戦から80年近い歳月を経てもなお繰り返される問いがある。「なぜ日本は圧倒的な戦力差のある米国を相手に戦争に踏み切ったのか」──。その答えは一つではなく、様々な要因が絡み合っているが、転機となった1人の女性の演説があらためて注目されている。宋美齢(そうびれい)──中華民国総統・蒋介石夫人にして、宋家の三姉妹の三女であった彼女が、日中開戦直後に行なった対米放送がそれである。当時、日本はこのファーストレディをどう見ていたのか?
米国在住ノンフィクション作家の譚璐美氏(璐は王偏に「路」)が日中秘史を紐解く。同氏の近刊『宋美齢秘録』より抜粋・再構成。
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1941(昭和16)年、日本は米英を相手とする太平洋戦争に突入する。なぜ、日本は経済力・軍事力で遥かに勝る米国に対して、無謀な戦争を挑んだのか──。
実は、それに先立つ1937(昭和12)年の盧溝橋事件の段階では、米国は決して日本との戦争を望んではいなかった。
当時、米国政府は日本が米国最大の貿易相手国であったことから、日本との摩擦はできるだけ回避したいと考えていた。米国国民も、遠く太平洋で隔てられたアジアの国々で起きている戦争には、あまり関心を持っていなかった。
それがなぜ、急転直下、中国に対して同情し支援する気になったのか。なぜ、米国政府は日本との良好な貿易関係を捨てて、対中支援へと政策を転換したのか。
その重要なカギを握るのが、宋美齢が米国へ向けて放った「歴史的なメッセージ」であった。
現代で言えば、ちょうどウクライナのゼレンスキー大統領が世界各国に訴えたように、宋美齢は米国へ向けて訴えた。それを聞いた米国の人々は彼女に大いに共感し、中国に同情して支援しようという機運が米国社会で高まり、米国政府も自国民の期待に応えるべく、対中支援に乗り出したのである。
宋美齢の発した「歴史的メッセージ」とは、果たしてどのようなものだったのか。