「岩井俊二作品」や「TBS野島三部作」、「NHK朝ドラ」など、数々の話題作で強い印象を残しながら、27歳のとき、突然俳優業から身を引いた小橋賢児さん(44)。安定した地位や人気を捨て、丸坊主で旅へ出たのはなぜだったのか。
本当の自分を見失っていった俳優時代、ネパールで知り合った友人の背中に感じた敗北感、旅のゴールで運命的に出会った世界的なフェス。そして、死すら考えたというどん底の頃。今だから振り返ることができる紆余曲折の歩みを、包み隠さずに語ってもらった。【前後編の前編】
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──音楽イベントの『ULTRA JAPAN』をはじめ、ディレクターやプロデューサーとして数多くのイベントを手掛けている小橋さんですが、俳優時代の活躍もやはり強く印象に残っています。
「芸能界に入ったのは8歳のときですが、別に俳優を目指していたわけではないんです。学校から帰ってよく観ていた『パオパオチャンネル』(テレビ朝日系)というバラエティー番組のオーディション情報をたまたま見つけ、『新レギュラー募集』という言葉の意味も分からないまま、ハガキを送ってしまった。単なる好奇心ですね」
──十代の頃には、映画『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』などの岩井俊二監督の作品や、『人間・失格~たとえばぼくが死んだら』からはじまる「TBS野島伸司三部作」などに出演し、俳優としてのキャリアも着実に積まれていました。
「朝ドラ『ちゅらさん』に出させていただくのは、そのあとですね。ただ、元々は自分の直感と好奇心を信じて動いていたのに、次第に『俳優だからこうしなければいけない』『芸能人だからこんなことをしてはいけない』というような枠に収まり、がんじがらめになっていっていました」
──窮屈に感じたということですか。
「窮屈だということも感じないようにしていましたね。そんな感情すらもOFFっていました。生きながらに死んでいるような、不感症のような状態で過ごしていたのが、20歳前後から26、7歳ぐらいまでです」
──そういった心身の状態が、俳優活動の休止に繋がっていったのでしょうか。
「漠然と『男は30歳から』と思いながら自分の30代を見据えたとき、それなりのポジションや生活を得ることはできるのかもしれないけれど、“本当の自分”で生きていないのにそれは本当に僕なんだろうかと考えたら、怖くなってしまった。
そんな思いもあって、それまで一緒に遊んだりしていた業界の輪から外れて、いろんなクリエイターの人たちと会うようになったんです。自然のなかで遊びながらインスピレーションを得て、イマジネーションし、それをクリエーションに変えていく。『想像』を『創造』に変えていく彼らの姿を見て、強い感銘を受けました」