活動休止のきっかけはネパールひとり旅だった
──環境を変えることで、不感状態を打開しようとしたわけですね。
「26歳のときに、ネパールでひとり旅をしたのも大きかったですね。現地で同い年の男の子と知り合ったのですが、彼は当時の僕と比べてお金もないし地位もない。でも、すてきな奥さんとかわいい娘さんがいて、『娘を学校に行かせるお金がないんだ』と言いながら必死に生きている。そんな彼が運転するバイクの後ろに乗って夕日を見に行ったとき、シートにまたがりながら嗚咽するぐらい号泣してしまったんです」
──その涙のワケは?
「そのときは自分でも意味が分からなかったんですけど、たぶん、家族を守るため今を必死に生きている彼と、自分に嘘をつきながら生きている自分に、人間力の差を感じてしまい、悔しくて泣いたんだと思います。その後帰国してからは、すべてが嘘のように感じてしまい、苦しさから逃げるように活動休止を決めました」
──当時の小橋さんの活躍を考えれば、活動休止に反対する人も多かったのでは?
「うちの親からも、『やっぱり戻った方がいいんじゃないか』と、辞めてから何年も言われましたね。でも、当時は僕も必死だったので、携帯を完全にOFFって誰とも連絡を取れないようにし、仕事でもNGにしていた丸坊主にしてアメリカへ旅立ちました」
──丸坊主に、「俳優」を断ち切る強い決意が感じられます。
「すべてを捨てるぐらいの覚悟でしたね。途中そのほかの国にも行きつつ、アメリカには語学留学で10カ月滞在しました。冬の間はとにかく勉強をして、春になったら現地で作った友人と車でアメリカ横断しようと。キャンピングカーを借り、20~30日間かけた旅のゴールとして辿り着いたマイアミで出会ったのが、世界的な音楽フェス『ULTRA MUSIC FESTIVAL』でした」
──どんな音楽フェスだったんですか?
「そこでは、世界各国の老若男女、それぞれにさまざまな境遇を持つ人たちが、音楽を共通言語に感情やエネルギーの交換をしていました。その姿を見て、僕のなかにもある種の気づきがあったんです。『もっといろんな景色を見たい。いろんな世界を知りたい』と。芸能界にいたときは『have to(しなければならない)』だったのが、久々に『want to(したい)』という感情が湧いた」