話を戻すと、インドから独立運動の闘士ラス・ビハリ・ボースが来日した一九一五年はインド大反乱の五十六年後で、インド独立の三十二年前である。つまり、ヒンドゥー教徒とイスラム教の対立を超えてインドが一つになっていた時期だ。ボースは独立戦争のために必要な武器をなんとか調達しようと思っていたのだが、大反乱以来イギリスの警戒は厳しくインド国内での調達は不可能だった。
ちょうどそのころ、ボースはベンガルの詩聖ラビンドラナード・タゴールがアジアで初めてノーベル文学賞を受賞し、そのお祝いも兼ねて日本に招かれたことを知り、「先触れ」と称して日本に入国した。もちろん真の目的は武器調達である。
〈1915(大正4)年6月5日、神戸に上陸したボースは京都経由で8日には東京に着き、7月28日には中国の革命家孫文を箱根に訪ね、肝胆相照らします。武器をインドに送るためボースは上海に渡り、東京の同志から送られてきた多量の武器をインドに送ります。ところが、この船がイギリス官憲に見つかり、同時にボースの密入国がイギリスに発覚してしまい、追及されることになります。日本に戻ったボースに、孫文は大アジア主義を唱えた「玄洋社」の頭山満を紹介します。当時の日本はイギリスと日英同盟を締結しており、イギリスのお尋ね者であるボースに国外退去命令が下ります。同年11月28日のことでした。〉
(『新宿中村屋ホームページ』)
退去期限は十二月二日だった。それ以降は不法滞在になるが、日本を出国すればイギリス官憲に逮捕され処刑されることは目に見えていた。そこで彼はどうしたか?
〈12月1日の夜。官憲の尾行がついたボースは頭山邸から変装し、警官の目を欺き逃亡します。そして逃げ延びた先が中村屋でした。それから中村屋の創業者 相馬夫妻は3カ月半、命懸けでボースをかくまいます。(中略) この後、約4年間、英国政府の追及が続き、17回にもわたり隠れ家を移り住む逃亡生活を送ります。それを支えたのが相馬夫妻の長女 俊子でした。中村屋を出た後のボースとの連絡役を務め、1918(大正7)年には頭山の媒酌で結婚しますが、逃亡中のことで結婚式は隠れて行われました。〉
(引用同前)
この後ボースは日本国籍を得て活動を続けるのだが、英米協調路線とは、この場合で言えば「ボースを見殺しにする」ことでもあった。だからこそ日本国内には、そうした路線を取るべきでは無い、それが正義だ、と考えた民間人や政治家もいたのである。
(第1421回へ続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2024年6月21日号