ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十三話「大日本帝国の確立VIII」、「常任理事国・大日本帝国 その14」をお届けする(第1420回)。
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今春行なわれた大相撲三月場所で、尊富士関が百十年ぶりに新入幕での優勝を遂げたというニュースが話題になった。尊富士関の快挙には拍手を送りたいが、じつは前回両国が新入幕優勝した百十年前というのは、現在述べている時代のちょうど一年前の一九一四年(大正3)のことなのだ。
この年にシーメンス事件が発覚して山本権兵衛内閣が総辞職。代わって大隈重信内閣が誕生したところで、第一次世界大戦が勃発し日本が参戦したことはすでに述べたとおりだ。「脇道」の部分で述べた三越呉服店が日本初のデパートメントストアとして開店し、現在の宝塚歌劇団(当時は宝塚少女歌劇)がスタートしたのもこの年だ。以前芸能史で述べた松井須磨子の『カチューシャの唄』が大ヒットしたのも、NHK朝の連続テレビ小説前作の『ブギウギ』主人公のモデル、笠置シヅ子が生まれたのもこの年だ。歴史は複雑に絡み合い、つながっているのである。
その翌年一九一五年(大正4)十二月、インド独立の闘士ラス・ビハリ・ボースが日本から退去を求められた。彼はなぜ日本にやって来たのか? インドを支配しているイギリスに武力で立ち向かうための武器調達が目的だった。しかし、イギリスはインド人の武装蜂起を強く警戒していた。インド大反乱(1857~1859)という苦い苦い経験があったからだ。
この大反乱を最初に起こしたのが、イギリス東インド会社の傭兵(シパーヒー。英語では「セポイ」)であったため、かつてはこの反乱は「シパーヒーの反乱」あるいは「セポイの乱」などと呼ばれたが、これには全インドのさまざまな階層が加わったという事実があり、イギリスの植民地支配に対抗する独立戦争の第一歩ととらえられるようになったことから、現在はインド大反乱と呼ぶ。
注目すべきは、それまでいがみ合っていたヒンドゥー教徒とイスラム教徒が同じインド人という自覚のもとに、イギリスの植民地支配に武力抵抗したことだ。ちなみに一八五七年は安政四年でもあり、日本ではアメリカ初代公使タウンゼント・ハリスが江戸城に押しかけ十三代将軍徳川家定に謁見した年だ。翌安政五年には日米修好通商条約が締結され、安政の大獄が始まっている。
そもそも、「インド」というまとまった国は存在しなかった。インド亜大陸には現在のネパールやパキスタン、バングラデシュも含めてさまざまな王国があり、ヒンドゥー教や仏教を信仰していた。そこへイスラム教徒が侵入し、北インド地方を中心にムガール帝国を築いた。この過程で仏像など偶像崇拝を認める仏教は、それを認めないイスラム教に排除され急速に衰えたが、民族宗教であるヒンドゥー教の勢いは強く征服者イスラム教徒も妥協を強いられた。
イスラム教が伝播した国ではエジプトのように古代からの民族宗教は排除されるのが普通で、インドの例はきわめて珍しいと言える。結局ヒンドゥー教はしぶとく生き残ったのだが、そのためにムガール帝国はヨーロッパを席巻したオスマン帝国などとは違って支配力の弱い政権となった。