5月20日、台湾の新総統に民主進歩党(民進党)の頼清徳主席が就任した。台湾海峡を挟んで対峙する中国共産党・習近平政権は、両国を対等な関係とする頼総統を「台湾独立」派として警戒し、台湾の野党・中国国民党との連携を強めている。だが、そもそも米国の支援の下で「抗日戦」に勝利した中華民国=国民党は、共産党との「国共内戦」に敗れて、台湾へ撤退した歴史を持つ。さらにその先には、台湾を孤立させることになる米国の“裏切り”があった。中国、台湾、米国の関係は、いかにねじれていったのか──。
ノンフィクション作家の譚璐美氏(璐は王偏に「路」)の近刊『宋美齢秘録』より抜粋・再構成。
* * *
中華民国総統・蒋介石率いる国民政府軍がまだ敗退するより前の1948年、米国では新たな中国支援策が打ち出された。総額5億7000万ドルの対中援助計画を議会に提出したのである。
もっとも、これは経済支援と民間支援に制限するもので、軍事支援ではなかった。トルーマン大統領は、国民政府に「限定的な援助」を与えることで政権を存続させ、少なくとも中国全土の共産化を防げるものと期待していた。中国大陸に「二つの中国政府」を併存させようとしたのである。
だが、蒋介石・国民政府が切望したのは、共産党を圧倒的な軍事力で制圧するための軍事支援だった。さらなる軍事支援を取り付けるためには直談判しかないと考えた蒋介石は、妻の宋美齢に、米国へ行って米国政府と会談し、緊急に軍事援助を取り付けるよう依頼した。
宋美齢は旧知のマーシャル国務長官に国際電話をかけた。前年、マーシャルが訪中した際には、誠意ある態度で、「いつでも米国へいらしてください。歓迎します」と言っていたからだ。
だが、電話の向こうからは、「個人の資格で米国へいらっしゃるなら、お迎えしましょう」と、すげない言葉が返ってきた。それでも一縷の望みをかけて渡米することにした。
かくして蒋介石は台湾へ退去した
1948年11月、美齢は病気療養を名目に、米国へと旅立った。
駐米中国大使の顧維鈞は、宋美齢が訪米すると聞き、米国政府の反応を探ってみたが、かんばしいものではなかった。ニューヨークへ到着した美齢は、旧知の米国軍人や米国政府関係者、中華民国大使館を通じて、トルーマン大統領に会見を申し込んだが、だれの対応も冷淡だった。
親しかったルーズベルト大統領が死去したことは、宋美齢にとって大きな痛手となった。待てど暮らせど、米国政府から色よい返事は来なかった。顧維鈞と幾度も相談したが、打開策を見いだせないまま時間が過ぎていった。