国民政府軍は共産党との三大決戦で大敗を喫し、退却に次ぐ退却を強いられ、蒋介石はついに中国大陸を離れて台湾島へ退避する決断を下した。
1949年1月、蒋介石は国民政府総統の職位から「引退」すると宣言し、側近と精鋭部隊、数万人の兵士を従えて台湾へ撤退した。
蒋介石は「光復」のスローガンを掲げて、中国大陸の奪還に意欲を燃やしていた。元日本軍兵士による軍団「白団」が組織され、日夜、軍事訓練に明け暮れた。1950年代初頭には、連日爆撃機が台湾から飛び立ち、上海上空から爆弾を投下した。しかし時間の経過とともに、爆撃機の出動回数は次第に減っていった。
宋美齢からは、米国へ行ったまま一向に連絡がなかった。痺れを切らせた蒋介石は、何度も電報を打ち、長文の手紙で米国政府から色良い返事をもらうよう催促し、さもなければ台湾へ帰ってくるよう懇願した。
蒋介石を見捨てた「台湾不干渉声明」
米国は対中政策の再検討を迫られていた。
1950年1月5日、トルーマン大統領は声明を発表し、アメリカは台湾海峡に関するいかなる紛争にも関わらず、中華人民共和国の攻撃があっても一切介入することはないとする米国の立場を明白にした。これは「台湾不干渉声明」と呼ばれている。
トルーマンがそのような声明を発表した背景には、アチソン国務長官の進言と米国の国家安全保障の分析結果があった。アチソン国務長官は、1949年、マーシャルの後任として国務長官に任命されたばかりだったが、1950年1月、米国ワシントンのナショナル・プレス・クラブで、「米国のアジア政策」と題して演説を行なった。これは今日の日本にとっても極めて重要な演説である。
〈太平洋の軍事的安全保障はいかなる状況下にあるか。また、それに関する私たちの政策とはいかなるものか。
まず第一に、日本を打倒し非武装化したことにより、アメリカは自国の安全保障ばかりか、全太平洋地域の安全保障のためにも、日本の安全保障のためにも、必要とあれば日本の軍事防衛を引き受ける義務を負っている。[中略]
[米国の定める]防衛線は、アリューシャン列島に沿って日本、そして琉球諸島[沖縄]に至るものである。アメリカは琉球諸島に重要な軍事基地を保有しており、将来にわたって維持してゆくつもりである。そして琉球諸島の人々の利益のために、適切な時期に国連の信託統治下に置かれるべきものである。[中略]
この防衛線は、琉球諸島からさらにフィリピンまで延びている。アメリカとフィリピンは防衛関係で合意しており、相互防衛要件の重要性に鑑み、軍事防衛は忠実に遂行される。〉
(Relations of the Peoples of the United States and the Peoples of Asia – We can only help where we are wanted”, Vital Speeches of the Day, February 1, 1950, City News Publishing Co.,)
アチソン国務長官は演説で、「太平洋における共産主義に対する米国の防衛線」(不後退防衛線)として、アリューシャン列島から日本、琉球諸島(沖縄)、フィリピンをつなぐ線を提示した。今日では「アチソンライン」と呼ばれるものだ。ただし、その中に、韓国と台湾は含まれず、「米国の防衛圏から除外された」ことを示唆した。
このアチソン演説を元に、トルーマン声明では、米国は台湾および澎湖諸島の戦略的重要性を認識し、外交的・経済的手段により中国からの支配は拒否する。しかし、米国は世界的な義務を果たすために軍事力を保持する必要があり、国民政府が主張している大陸反攻への軍事行動には加担できない。従って、「米国の防衛圏」に台湾を含めず、「国共内戦」には中立的立場を維持し、台湾への軍事介入にも不干渉の立場をとる──とする趣旨である。
この米国の方針転換は、今日の国際情勢にとって極めて重大である。国民政府が支配する中国を「大国化」してアジアの盟主へ育て上げようという考えを捨てて、代わりに日本を「アチソンライン」の米国の防衛圏内に置き、日本を防衛し、「大国化」してアジアの盟主として認めようというのだから、終戦からわずか5年目にして、米国は方針の大転換を図ったことになる。