2014年ブラジルW杯開幕戦の終了後、選手と笑顔で握手を交わす西村主審(左から2人目)
審判としての“最高のマネジメント”
サッカーの試合でのオーバーアクションといえば、多くの人は「選手側のアピール」を想像するかもしれない。中には足がかかってもいないのに両手を広げて派手に転んだり、痛がったりして審判を欺こうとする「シミュレーション」と呼ばれる行為もある。判定に曖昧さを内包する競技ならではともいえるが、なぜかサッカーの“兄弟スポーツ”といわれるラグビーではあまり見ないプレーでもある。
筆者の個人的感想ではあるが、「審判への抗議や反抗的態度が頻繁なスポーツ」という印象もある。実際、本書で登場する他競技の審判たちからも、「判定に選手が不服を示す場面が多いので、サッカーの審判はつらそう」という声があった。
「フィジカルコンタクトですぐに倒れて派手なアピールをする選手がいるのは確かですが、それも含めて“サッカーの表現力”なのだと理解しています。
私が実感していることですが、選手たちが“今日は主審に任せた”と試合に集中し始めると、判定へのアピールは格段に減ります。その状況になった時に、“自分は良いレフェリングができているのでは”と感じます。
逆に選手からのアピールがなかなか収まらないうちは、まだ“任されていない”ということ。実際、後半の残り20分を切ったら選手たちは試合の勝敗に向けて目の前のプレーに必死になり、アピールする余力なんてありません。それでもまだアピールされるようであれば、主審のマネジメントにも問題があるかもしれません」
しかしながら選手の不満やアピールに付き合うばかりでも試合は進まず、混乱する。“曖昧さ”があるからこそ、サッカーの審判には「威厳」が必要になってくるのではないだろうか。
「審判に『威厳』があると感じてもらえるとすれば、試合中ではなく、ゲームが終わった後に選手やサポーターが“良いジャッジだった”“素晴らしいマネジメントだった”と感じてもらえた時なのだと思います。もし私が試合中に威厳を出そうとしたら、単に高圧的になるだけでマネジメントはうまくいかなくなります。
過去には“審判の判定は絶対”という時代もありましたが、今は映像判定の導入などもあり、“審判だって間違えることがある”ということが浸透してきました。両チームからレファーされたからこそ選手と同じ目線に立ち、時には間違いを認めることも大切です。よって私は“選手に対して威厳を示そう”とは考えません」