たとえば、テロリストの集団がいるとする。その集団が人質を取って政府に身代金を払うよう要求したが、政府が拒否したので人質が全員殺されてしまったような事件があったとしよう。そのとき、テロリスト集団が「人質を処刑した」と発表したら、記者はそれをどう報道すべきか? おわかりだろう。「テロリスト集団は人質を処刑した、と発表しました」である。
もちろん、それは本当の意味の「処刑」では無い。処刑というのは基本的に法治国家で法律に基づいて執行されるもので、この場合は殺人である。しかし、テロリストがそれを「処刑」と称したなら、その事実は事実として報道しなければならない。もちろん「これは処刑などでは無く、残虐な殺人です」と記事に付け加えることは必要だが、それは「論評」であり事実の報道とは違うものである。
この場合「お前は処刑という言葉を使ったな、テロリストの行動を容認するのか!」という人間がいたら、あなたはどう思うか? 少々頭がおかしいなと思うのではないか。「事実の報道」それは「正確な用語を使う」ことでもあるのだが、それをしたからと言ってそれは「テロリストの行動を容認した」ことにはならない。あたり前の話である。
同じことである。「大東亜戦争」という言葉を使ったからといって、それはその戦争を全面的に支持することとイコールでは無い。あたり前の話ではないか、事実を事実として報道するためには、まず正確な用語を使わなければならない。これもあたり前の話ではないか。日本はあの戦争を「大東亜戦争」と呼称して始めたのである。だから、その事実は決して消去してはならない。そのうえで「これは侵略戦争でした」とか、逆に「いや、アジア解放のための崇高な戦争であった」などと論評するのは、思想の自由および言論の自由の問題であって、議論が始まるとすればそこからだろう。
「アジア解放」の理想
では、日本ではなぜ「大東亜戦争」という言葉自体を使うべきではないと考える愚かな人々が存在するのだろうか。本連載の読者にはいまさら改めて言う必要も無いだろうが、わからない人がまだまだいるようなので念のために言っておく。言霊である。
日本は古くから言霊信仰つまり「言葉を消せば実態も消える」という迷信があり、歴史学者がそういうことに気がついていないものだから歴史教育でも教えられず、日本人として生まれると心のなかにそれが刷り込まれてしまい、大きな影響を受ける。それでも私の本を読んでくれればいいのだが(笑)、読んでいない人間がジャーナリストや歴史学者になると最悪である。
昔こういった連中が「支那事変」という言葉は差別語だから一切使うな、などというバカな運動を始めた。一時はNHKの歴史ドラマなどでも、「日中戦争」などと「言い換え」がされていたのである。