しかし、こんなことをすると当時の陸軍が、ちょうどテロリストが殺人を「処刑」と言ったように、「実質的な戦争を単なる軍事衝突と言い換え、国民を欺いていた」という歴史上の事実が消されてしまう。歴史も記事もまず事実を正確な言葉で述べ、論評するのはその先の話だという世界の常識が日本に定着するのはいつの話だろう。「日本は“あの戦争”を大東亜戦争と呼称しました」という歴史的事実については「太陽が東から昇る」ことと同じで、右も左も無いのだから。
さて、冒頭で述べた問題から脇道に逸れてしまったと思っている読者がいるかもしれないが、じつは逸れてはいない。問題は、大正初期に日本が英米協調路線を取るべきだったか、という点にあるからだ。実際には日本は英米との対決路線を選び、それが大東亜戦争につながった。戦後占領軍が日本に押し付けた「太平洋戦争」という不正確な言い方ではわからないが、あのとき日本は東と西に分かれて海軍はアメリカと、陸軍はイギリスと戦った。
もちろん中国の占領を維持しようという意図もあったが、欧米列強の植民地支配からアジアを解放しようという理想もあった。そんな理想は嘘っぱちだと決めつける向きがとくに朝日新聞の読者に多いようだが、世界にはこの日本の行動を高く評価している人もいる。その一人が、マレーシアのモハメド・マハティール元首相である。氏は一九四一年(昭和16)、日本軍がマレーシアの実家近くに侵攻して来たときのことを、新聞のインタビューで次のように述べている。
〈「あの時、私は十六歳だった。タイ国境に近いケダ州アロルスターに自宅があったので、開戦後ほどなくして日本軍を見た。当時は英国支配下なので英語学校で教育を受け、日本がきらいな親英派少年だった。英国人は日本軍が来る前、『太陽と月、星が輝く限り、マレーの人々を守る』と豪語していた。でも日本軍の前に簡単に総崩れとなって敗走した。とてもショックでした」〉
しかし、この経験でマハティール少年の心に新しい希望が生まれた。
〈「アジアの日本人が、とうていうち負かすことのできないと私たちが思っていた英国の植民地支配者を打ちのめした。私の心の中にアジア人としての自信が次第に芽生えてきた。マレー人だって日本人のように決心すれば、自分の意思でなんでもできるはずだと」〉
おわかりだろう。もし日本が英米対決路線では無く英米協調路線を取っていたら、この結果は生まれていない。つまり、いまだにマレーシアやインドもイギリスの植民地であり、ベトナムとカンボジアはフランスの植民地であり、フィリピンすらアメリカの植民地であったかもしれないのだ。マハティール首相(第1次政権)の時代のマレーシアは、ルックイーストという「日本を見習え」という政策で国を発展させたこともあり、彼は大の親日家である。この結果も英米協調路線ではあり得なかったことだ。
本連載で以前、「いま(英米協調路線か英米対決路線のどちらを取るべきか)アンケートを取ればほぼ一〇〇パーセントの人が『英米協調路線』が正しいと言うだろう」と述べたことを覚えておられるだろうか。たしかに英米協調路線を取れば大東亜戦争は無かったかもしれないし、約三百万人の犠牲者を出さなくて済んだかもしれない。しかし、歴史というのはそんなに単純なものでは無いということがおわかりだろう。
ちなみに、あくまで英米協調路線でいくべきだと考えていた大隈重信首相が、政党政治の後継者として「加藤高明しかいない」となぜ考えたのか、その理由もここにある。われわれ後世の人間が「この人でもよかったのに」と考える犬養毅や尾崎行雄には、「致命的な欠点」があった。そう、とくにイギリスの植民地支配を彼らは認めていなかったのである。
そう言えば、先ほど引用したマハティール首相のインタビューの出典を示し忘れたので、ここで述べておこう。『朝日新聞』の二〇〇〇年十一月十四日付朝刊(宇佐波雄策記者)である。自分の主義主張はとりあえずおいて、客観的なデータの提供をまず行なう。朝日新聞社にも昔はまともな記者がいた、ということかもしれない。
(第1422回へ続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2024年6月28日・7月5日号