対談場所に用意したコンサートのパンフレットを見た野口。写真右下のパンフレットを眺めながら、「この衣装はね、本物のダチョウの羽なんだ。後ろからドライアイスを吹きかけるという、かっこいい演出があったんだけど、息ができなくて大変だった」と笑う
小5のときに一目でビビッときました!
〈机上には、1970年代の野口の軌跡がわかるコンサートのパンフレットや雑誌の数々が。いずれも、かつて藤が食い入るように見ていたものだ。野口のレコードや雑誌はいまや“お宝”で入手困難。古書街で知られる東京・神保町のレコード店店主によると、「野口さんのレコードはいまも大人気で、入荷しても即完売。いつも在庫不足」だという。
そんなお宝を目にした瞬間、2人はタイムスリップした──〉
藤:懐かしい! この雑誌、持っていました。五郎さんはこのときの撮影を覚えていますか?
野口:よく覚えているよ。アメリカで撮影してね。ぼくの隣に写っているのは、有名なジャズギタリスト、ラリー・カールトン。当時はスタジオ付きのギタリストでさ、ぼくはこのとき、19才で……。
〈と、座る前から話が尽きない。ともあれ、まずは着席いただいた〉
野口:あや子さんに応援してもらっていることは知っていまして、いつも感謝していました。『NHKのど自慢』をはじめ、歌番組などでご一緒したことはありますけど、今回のように落ちついてお話しするのは初めてですね。特別なこの日にふさわしく、誰にも話さなかった話をしようかな(笑い)。
藤:きゃあ~、小学生の私に教えてあげたい。「将来、こういう日が来るからがんばりなさい」って。五郎さんは私にとって特別な存在。小学5年生の頃からずっと推しているんです。
〈同じ歌手というより、もはやいちファンの藤。緊張のせいか、ソファの端にかしこまって座り、隣の野口との間には微妙なスペースが……。
野口は藤より5才(6学年)年上で、15才(1971年)のときに演歌歌手として『博多みれん』でデビューした。その3か月後に発売した『青いリンゴ』からアイドルへと方向転換し、これがヒット。以降、筒美京平さんや馬飼野俊一さん、佐藤寛さんら、人気作曲家とタッグを組み、怒濤のヒットを飛ばしていく。同時に、1972年にデビューした故・西城秀樹さん(享年63)、郷ひろみ(68才)らとともに“新御三家”と名付けられ、トップアイドルの道を歩み始める。藤が野口に魅了されたのは“新御三家”誕生の頃だ〉
藤:当時は、歌番組が多かったですし、毎日どの番組を見ても五郎さま、いえ、五郎さんが出演されていて──すみません!! いつも家では“五郎さま”と呼んでいるもので、つい……小学校では、「あなたは誰派?」という話で盛り上がっていました。私はもちろん五郎さま派。テレビで見てビビッときましたね。子供心に五郎さまだけ、ほかのどのアイドルとも違うと感じました。声も雰囲気も段違いで、憂いがある。10代にしてあの哀愁……ありえません。
〈プロ野球ファンの父親とのチャンネル争いに勝つと、藤は正座してテレビを独占。歌番組にかじりついたという〉
藤:当時は新曲が3か月に1回出るんです。レコード店で毎回予約するから常連になって、店長から「1日早く届いたから取りにおいで」なんて融通をきかせてもらいました。だから発売日の前日には歌詞を覚えて、翌日の発売日には、学校で誰よりも早く歌を披露していました。部屋中にポスターを貼って……。天井にもポスターを貼っていました。眠る前は必ず五郎さまと目が合うように(笑い)。
野口:うれしいなあ。そうそう、当時は新曲が出るのが早かったんだよね。
藤:あれほどのスケジュールで休めていたんですか?
野口:デビューから何年も休めなかったですね。一度、悪天候で飛行機の飛ばない日があって、そのときはステージが休演に。それで1日だけお休みをいただいたことがありました。
藤:じゃあ、睡眠時間も……。
野口:当時は週に50本以上歌番組があったから、ほとんど寝ていなくて……。スタジオの暗幕を体に巻き付けて、出番がくるまでミノムシみたいに立ったまま眠ったこともあったくらい。わずかな時間でも熟睡できるようになったんだけど、出演直前に起こされるから、実は寝起きで、目が腫れたままテレビに出たこともあったっけ(笑い)。
藤:は~、すごいです!