ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十三話「大日本帝国の確立VIII」、「常任理事国・大日本帝国 最終回」をお届けする(第1423回)。
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この大正初期―英米協調路線をめざしていた山本権兵衛内閣がシーメンス事件という不可解な「疑獄事件」で崩壊し、大隈重信内閣が誕生した時期―の時点で、将来日本の進むべき針路は大きく三つに分かれていた。
【1】英米対決路線……満洲などから英米を締め出し、将来の対決に備える
【2】英米協調路線……帝国主義の「先輩」である英米と協調し、アジアとくに中国で利権を拡大する
【3】民族自決路線……欧米植民地の独立闘争を支援し、帝国主義と決別する
現在の価値観で日本の採るべき針路の順位をつけるなら、【3】→【2】→【1】の順番だろう。もっとも、これまでの記述で「中村屋のボース」のことを知った読者は、【3】はいいけど【2】と【1】は「同じ穴のムジナ」だな、と思うかもしれない。たしかに、この二つの路線では日本は結局欧米列強の「弟子」になっただけで本質は変わらないように見える。
しかし、ここで気がついてほしいのだが、じつはまったく対照的に見える【1】と【3】も、「同じ穴のムジナ」つまり共通点があるのだ。そんなバカなと思うかもしれないが、大英帝国はなぜ七つの海を支配する大帝国になったのか? それは世界各地に植民地を持ったからである。
ということは、民族自決路線を進める場合、最大の敵はイギリスになる。イギリスの持つ最大の植民地「インド帝国」も解放するには、まずイギリスに認めさせなければならない。しかしそれは「話し合い」や「説得」では無理なことはおわかりだろう。人間でも国家でも一度手に入れた利権は絶対に手放すまいとするし、イギリスだって植民地獲得のためには多くの血を流しカネを費やし、獲得後はインフラなどに投資もしている。
日本、いや大日本帝国は結局【1】の路線をゆき、一九四一年(昭和16)に大東亜戦争を仕掛けた。そのなかには「大義名分」として、「横暴なイギリスからの植民地解放」が入っていた。アメリカはそれを「消す」ために戦後占領中の日本に圧力を掛け、「あの戦争は太平洋戦争と呼べ」と強制した。これは歴史上の事実なのだが、昔は私もそれを知らず「太平洋戦争」という言葉を使っていた。
しかし、これでは「あの戦争」が太平洋におけるアメリカとの戦争だけに限定されてしまうので、歴史用語としてはきわめて不適格である。前にも述べたように、日本は陸軍と海軍が東西を分担し、東側の太平洋で海軍がアメリカと戦い、西側のアジア大陸では陸軍がイギリスと戦った。だから、それを認識したときから、原則として大東亜戦争という言葉を使っている。
これに対し「アジア・太平洋戦争」と呼べという人もいるが、これは前にも述べたように歴史を研究する者としては不適切な姿勢だと考えている。まず当時使われた用語を使うのが当然で、そういう言葉を使ったからといってそれは軍部の姿勢を支持するということにはならない。あたり前のことだが、これがあたり前にならないことが日本の歴史学界のみならずマスコミの不幸であると考えている。
そういう私の考え方とはまったく逆の立場から書かれた『日本の歴史(20) アジア・太平洋戦争』(森武麿著 集英社刊)では、この戦争において日本がスローガンとして叫んだ植民地解放などは単なる建前であった、としている。著者の言葉を借りれば、「大東亜共栄圏の日本支配の形態は、基本的に虐殺・労務強制・ビンタの旧型植民地支配が特徴であった」ということになる。