空襲下の民衆の苦しみをアピール
1937年12月、ニューヨークの「フォーラム」誌に、「中華民国は、その地位を保持する」と題して、日本の攻撃に対してアメリカの支援を期待しつつ、こう述べている。
〈私は、日本軍の爆撃機が、侵入して来る前に、この原稿を書いております。空襲警報は、十五分前に鳴ったからです。[中略]私どものいる上海を敵が爆撃しはじめたのは、二カ月以前からでした。その頃の民衆の苦しみは、形容のしようのないようなものでありました。[中略]
みなさんは、日本軍が、上海基地だけにも四百機(彼等は、全部で三千機以上を持っています)の飛行機を持っているのに対し、[中略]私どもの空軍は、できてからまだ五年しかたっておりませんし、その間に私どもは、新型の飛行機を扱う経験を欠いて、徒らに時間を浪費してしまった、ということを覚えておいていただきたいものです。
こういうわけで、私どもは、日本軍に対し、十分な空中防御力を持たないので、やむを得ず、アメリカやその他の国へ、大量の注文をせざるを得なくなり、できるだけ早く飛行機を、予定の数だけ持ちたいと希望するにいたったのです。私どもは、日本に対してなにを望むべきかを知っております。ですが、私どもは、私どものもっとも悲観すべき気分のうちにも、それをいたしません。私どもはアメリカが、……と想像しています。〉
「……」の部分は、「支援してくれたらよいのに」と言う言葉を、著書では敢えて書かなかったのである。そして、時々刻々と日本軍の爆撃機が襲来して爆弾を投下する様子をドキュメント調で緊迫感を盛り上げ、アメリカが国際法を無視していることに失望したと揶揄する。