ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十四話「大日本帝国の確立IX」、「シベリア出兵と米騒動 その3」をお届けする(第1426回)。
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アジアの遊牧民の生態と歴史に関する最良の入門書は、国民作家司馬遼太郎の『街道をゆく 5 モンゴル紀行』(朝日新聞出版刊)かもしれない。一九七三年(昭和48)八月に取材して『週刊朝日』に寄稿した(その後単行本化)もので、「旅行情報」としては古過ぎるが「背景説明」は面白い。ちなみに、ご本人は大阪外国語学校蒙古語部(現在の大阪大学外国語学部モンゴル語専攻)卒なのだが、こんな具合である。
〈清朝末期には内蒙古の地は漢民族の人口のほうが多くなり、モンゴル人は遊牧の適地の多くを失って、その牧畜生産力は大いに衰弱した。それだけでなく、清朝がモンゴル人の民族的活気を殺ぐためにラマ教をすすめたことも、衰弱に拍車をかけた。生産を支える男子の多くが僧になったことと、さらにはラマ教には僧が初夜権をもつという奇習があり、しかもその性的権威を通じ、僧が梅毒を蔓延させるということなどもあって、人口まで激減してしまった。(中略)その上、漢民族の商人が、モンゴル人の商業的無知につけ入って搾取し、いよいよ貧窮化させ、ついには家畜すらうしなって草原をうろつく窮民が清朝末ごろから出てきた。草原では乞食が成立しないのである。窮死するしかない。〉
(引用前掲書)
日本で言えば、「シャモ(内地人)」が純朴なアイヌ民族からサケやクマの毛皮を「収奪」したのを思い起こさせる(『逆説の日本史 第17巻 江戸成熟編』参照)。ただ遊牧民族であるモンゴル人と違って、狩猟民族であるアイヌは「窮乏」はしても「窮死」はしなかったし、「シャモ」も梅毒を広めるようなことまではしなかった。この違いは日本人の優しさ(笑)によるものでは無く、同じ土地を「草原(羊のエサ場)」のままとするか「田畑」に変えるかという、遊牧民と農耕民の究極の争いに由来するのだろう。
この争いには妥協の余地が無いが、日本列島における縄文人と弥生人の争いは土地を「森林」のままとするか「田畑」に変えるかの争いであって、平安時代初期までは東国と西国で平和的共存が成立していたし、桓武天皇が征夷大将軍坂上田村麻呂を派遣して東国を征服し「田畑」に変えた後も、アイヌの本拠である蝦夷地(北海道)までは征服しようとはしなかった。
再三述べたように、彼の地では稲作が不可能だったからである。つまり、日本人の立場から見ればアイヌは「窮死」させる必要は無く、むしろ「サケやクマの供給者」として「生かして」利用すべき、ということになる。それが日本列島の歴史である。あらためて、「万里の長城」という境界線は作られたものの、遊牧民と農耕民が妥協できずに土地を争った中国大陸とは、日本列島と違ってじつに苛烈な環境であったことを思い知らされる。