本章に入ってから人物紹介がやたらと続くな、と感じておられる方も多いだろう。そのとおりなのだが、なぜそうなるかと言えば、かつての大日本帝国がモンゴルと深くかかわったという歴史的事実が最近ほとんど忘れ去られているからだ。だから「旗」などという言葉も一から説明せねばならない。戦前はまったく違った。
そもそも、青年福田定一(司馬遼太郎の本名)が大阪外国語学校の蒙古語部に入った理由の一つに、「大草原へのあこがれ」があった。もちろん、この大草原とはアメリカ大陸では無く中国大陸のことだが、それは彼だけで無く多くの日本人青年の思いでもあった。戦前の青年にとって、狭い日本を飛び出して世界に雄飛しようと考えるならば、その行き先は「支那大陸」であり、「大草原」であったのだ。そうした、その時代の日本人の常識を知らねば歴史は語れない。
前出の事典の下田歌子の経歴では触れられていない(つまり忘れ去られている)が、彼女の創立した実践女学校には一九〇六年(明治39)、内モンゴルの毓正女学堂から女子学生三名が留学している。もちろん「モンゴル史」で初めてのことで、留学が実現した背景には「カラチン王家の家庭教師」をつとめた河原操子の尽力があった。この「カラチン王家」とはグンサンノルブ・愛新覚羅善坤夫妻のことだが、そのグンサンノルブが創立した毓正女学堂から、河原の帰国に伴い女子学生が同行する形で留学が実現したのである。
注意すべきは、この時代の中国大陸の常識は朱子学に基づく「女子に学問など必要無い」だったことだ。そこに注目すれば、グンサンノルブがいかに開明的君主であり、日本との絆がきわめて深かったことに気がつくはずである。
(第1427回に続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2024年8月16・23日号