日本語、ジョージア語、英語。日々3つの言語を駆使して仕事をされている大使は、それぞれの言語を使うとき、スイッチが切り替わるように自分自身の内側で何かが変わると感じることはあるのだろうか。
「一番気楽に、心のバリアを張らずに使えるのはやはりジョージア語ですが、それぞれ、表現の可動域が違うというのかな……たとえばなにかを指示するとき、同じ内容を日本人のスタッフとジョージア人のスタッフに伝えたとして、片方ではフラットに聞こえ、もう片方では厳しく聞こえる、みたいな現象は起きているのかもしれません。言語によって、表現しやすいこと、しにくいことというのはやはりある。性格はもちろん変わらないけれども、相手にはキャラクターが違って見えることはあり得ると思います」
繰り返されてきた思考と経験から生まれる、言語に対する見解には強い説得力がある。そのルーツは子供時代からの葛藤にあるのかもしれない。
「『自分は何者なのか』ということを考えざるを得ない環境で成長してきたとは言えますね。子供の頃、日本人の友達と日本語で会話して、別になにも不自由はしてないのに、親に『ジョージア語の本を読め』と言われて嫌だなあと思ったときもありました。日本のゲームやアニメも好きだったし、スポーツにも打ち込んでいて、困ったことがあるわけではなかった。だけど、本当のところ、心の中ではモヤモヤしていたんですね。自分のアイデンティティはどこにあるんだろう──? その答えが欲しいと、ずっと思っていました。
だから高校生のとき、ジョージアに1年滞在して、文化や言語をしっかり吸収したことで『自分はジョージア人なんだ』と確信を持てたのは嬉しかった。所属する場所はここだ、と分かったことで安心もしたし、自信も生まれました。大きな壁にぶつかって良かったと今では思っています」