「コンビニで夜間バイトしながらコーチ」
ところが、2008年に李による指導中の暴力が発覚し、日本学生野球協会から3か月の謹慎処分が下った。学校とも対立を深めた李は学校を離れた。
「学校からもより重い処分を言い渡されて、私は“やってられへん”と投げ出してしまった。銀行員を辞めてまで京都国際に来てくれた小牧を裏切る形となり、恨まれていても仕方ないんですが、私を頼って入学してくれた子たちを監督となった小牧が責任持って卒業まで指導してくれた。感謝しかありません」
京都国際のグラウンドはレフトが70m、センターとライトが60mという狭くて歪な形状をしていて、練習試合どころか、外野ノックもままならない。このハンデのある練習環境で、小牧は16年間の監督生活で11人のプロ野球選手を輩出した。李が言う。
「あの学校で、あの環境で、よくぞこの成績を残せた。『すごいな』の一言しか浮かびません」
小牧が脱サラして高校野球の指導者となった当時を振り返る。
「僕は野球以外、なんの取り柄もない人間で、ATMの使い方を知らないのに銀行員になったぐらいなんです。1年目(2006年)の11月に退行し、翌年4月までは実家が経営するコンビニで夜間バイトをしながら、京都国際でコーチをしていました」
甲子園を目標に掲げるのではなく、大学や社会人まで長く野球を続けられる野球選手を育てることに重きを置く指導者としての姿勢は、李に教わったものだという。
「それはPLの教えでもあると思いますが、試合はいわば舞台発表の場という位置づけなんです。京都国際はグラウンドが狭いし、満足なチーム練習はできない。徹底的に個の技術を磨き、身体能力を高め、個の力を結集して試合で発表する。その舞台が甲子園であれば最高という考え方でした」