甲子園優勝直後に「韓国語の校歌なんてどうでもいい。選手らのプレーを取り上げたって欲しい」と本音を明かした京都国際の小牧憲継監督(41)。ノンフィクションライターの柳川悠二氏が、同校野球部の歴史をレポートする(全3回の第2回。第1回から読む)。
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京都国際は2021年の春にセンバツで甲子園に初出場して以降、5度にわたって甲子園に出場し、今夏は初の日本一になった。監督の小牧憲継は言う。
「短期間でいきなり強くなったと思われるかもしれませんが、17年前に京都国際に来て、ずっと積み重ねてきたものがようやく結果に結びつくようになっただけやと思っています」
小牧と京都国際の縁は、25年前の高校時代まで遡る。1999年、京都国際の前身である韓国系民族学校の京都韓国学園に、野球部が創部された。京都成章の1年生野球部員だった小牧は同年夏、京都韓国学園戦に出場し、34対0で勝利した経験を持つ。
小牧が京都国際で指導を始めたのは、京都成章の同級生に京都韓国学園の中等部出身の選手がいたことがきっかけだった。その縁から、小牧は高校野球を引退した2001年夏以降、関西大に進学してからも時折、京都韓国学園で球児たちに野球を教えていたという。
京都韓国学園が経営難に陥ると、2004年に日本の一条校となって校名を変更した。小牧が京都国際の社会科教諭として採用されたのは2007年だ。
当時の野球部はPL学園のOBで、在日3世となる李崇史(リ・スンサ、現・長崎県の私立島原中央高校監督)が率いていた。小牧より2歳上の李が、関西大時代の小牧について振り返る。
「京都国際となり、日本の高校生が入学してくるようになったとはいえ、私が監督をしていた頃の京都国際は在日の子が多く、毎年、韓国からの留学生もいました」
その頃、京都国際の試合となると、観客席や相手ベンチから「助っ人外国人に頼りやがって!」というような心ない野次も飛んだという。
「留学生といっても、高校野球部の少ない韓国国内の競争に敗れた子ばかりで、身体能力は高いけれども、野球が下手な選手が多かった。そういう選手に対して大学生だった小牧は投げ出すことなく丁寧に技術指導し、高3の夏には立派な野球選手に育てていた。小牧の情熱と指導はチームの力になる。そこで彼が銀行に就職してからも、教師になれと誘ったんです」