それに対して香港などはともかく、中国本土からは大きな反撥の声が起こっていない。それは必ずしも中国共産党の言論および思想統制が成功しているからだけでは無い。そもそも中国には、万人平等の思想がいまも昔も根付いていないからだ。この点、「戦前」の日本人のほうがこうした中国人の民族的特質を理解していた。中国を統治するには、皇帝制のほうが多くの民衆の支持を得られる、ということだ。ならば、日本の手強いライバルである「成り上がり」の袁世凱を潰すためには、「本物」の皇帝を担ぎ出して対抗させればよいことになる。
ここに至って、辛亥革命のときには「プランB」として封印された満蒙独立運動が再び脚光を浴びることになった。なぜなら、「プランA」つまり孫文の主導する民主的国家の中華民国と付き合っていけばいいという方針が袁世凱によって潰されてしまったからだ。ただし、その「第二次満蒙独立運動」のキーマンは「第一次」と同じ大陸浪人川島浪速、清朝皇族粛親王善耆、内モンゴルのハラチン右旗長のグンサンノルブだけでは無かった。もう一人、バボージャブという内モンゴルの「軍人」が加わった。いや、こちらのほうがむしろ「主役」だった。
もちろん、それには理由がある。簡単に言えば、辛亥革命のときには無かった内モンゴルと日本の絆が生まれていたからだ。清朝が滅ぼされた辛亥革命の時点では、内モンゴルは清国に完全に取り込まれていた。グンサンノルブの妻が清皇室出身の愛新覚羅善坤であったのがその象徴で、こうした例は他にもある。だから、この時点での「満蒙独立」とは「清」を「内モンゴル」が助けて中華民国に対抗するというものであった。
そして「孫文の中華民国」が一度は成立したので、日本は「満蒙独立」という「プランB」は捨てた。しかし、内モンゴルとの交流を絶つのも惜しいと考え援助は続けた。そこで結果的に、辛亥革命以前には存在しなかった内モンゴルとの絆が生まれた。
そうした積み重ねのあとに、袁世凱が「孫文の中華民国」を破壊し「中華帝国」をめざすという暴挙に出たのである。ならば日本の後押しする「満蒙独立運動」においては、一方では清朝の復興を援助するとしても、内モンゴルまで清朝に渡すことはない。むしろ内モンゴルとの絆を生かし本当に中国から独立させればいい。そうすれば、日本は中国大陸に新たな拠点を得ることができる。
そういう観点から言えば、日本のパートナーとしてよりふさわしいのは、清朝をあくまで尊重するグンサンノルブでは無く、もっと民族意識つまり中国からの独立志向が強い武闘派の内モンゴル人がよい、ということになる。
それがバボージャブだった。