優子は元競走馬だった「彼」との、言葉を必要としない関係に魅了される。しかし、今のままでは、他の客にも乗られてしまう。馬主となるには450万円の他に、月々20万円の預託料(管理費用)がかかる。労働組合の経理の仕事を一手に任されていた優子は、金庫に収められた札束を盗み出し、支払いに充ててしまう。〈ストラーダ。/初めて、彼を名前で呼んだ。/応えるように黒い馬がいななく。気に入った、と私に伝えるように〉。その後も、何度も何度も罪を重ねる──。
本書は全152ページと、川村作品としては、かつてなく薄い。初出が純文学雑誌であったため、小説の長さは原稿用紙220枚と短くなった。
「今は『ルックバック』(今年6月に公開された劇場アニメ)のような60分の映画が当たっている時代。圧倒的なスピード感で、一息で駆け抜けるように読める作品が時代の気分だなと思いました」
純文学を意識したからこそ、取り入れることとなった要素がある。
「僕が好きな純文学の作品は、コンセプチュアル・アート、言語芸術的な要素があるんです。それを自分なりにやってみたいなと考えた時に、主人公が言葉を喋らない小説にするのはどうかな、と。言葉のコミュニケーションにうんざりしている現代人の心情を、主人公に託したいという意図もありました」
取り巻く状況が悲惨でも笑える
優子は職場や乗馬クラブで発生するコミュニケーションの99%を、愛想笑いとかすかな表情の変化でやり過ごすのだ。そんなことは可能なのかと思われるかもしれないが、不思議なほどに説得力がある。
「そんな主人公って成立するのかな、と僕も不安だったんです。でも、これは実際に書いてみて気づいたことなんですが、黙っていると周りの人が話しかけてきたり、何かと気にかけてくれるものなんですよね。黙っている人には、場を支配するパワーがある。逆に言うと、彼女は黙ることによってコミュニケーションをサボっている」