チョイバルサン(1895~1952)という、モンゴル人民共和国樹立(1924年)に大功があり後に首相にもなったモンゴル人だが、彼は「モンゴルのスターリン」と呼ばれた。そう呼ばれたのはまさに、スターリンを見習って政敵だけで無く多くのモンゴル人を粛清という名で殺したからである。もっとも、スターリンはその死後に本国も含めて各国に建立されていた銅像がすべて引き倒されたが、チョイバルサンの銅像はいまでもモンゴル国内にあり、スターリンとは逆に、ある町の名がチョイバルサンに変更された。彼は欠点はあったが、国民的英雄として評価もされているということだ。
では、なぜチョイバルサンは英雄なのか? ほかの地域では蛇蝎のごとく嫌われ破壊されたスターリンの銅像が、モンゴル人民共和国においてはなぜ長いあいだ残されていたのか?(現在はさすがに撤去されているようだ) この二つの疑問に対する答えは、たった一つである。それも「答えの名前」なら、おそらく歴史に関心のある日本人で知らない人はいないだろう。しかし問題は、それが「答え」であることを多くの日本人は知らないということである。
なぜか禅問答のようになってしまったが、その答えとは「ノモンハン事件」(1939年)である。意外に思う人もいるかもしれないが、ここでちょっと読むのを止めてノモンハン事件とはいかなる「事件」であったか、あなたの記憶を探っていただきたい。「日本の関東軍とソビエト連邦軍が正面切って戦った軍事衝突」? たしかにその答えは間違いでは無いが、一つの大きな認識が欠けている。
ここで、辞典はどう記述しているか、見てみよう。
〈昭和14年(1939)5~9月にノモンハンで起こった軍事衝突事件。満州国とモンゴル人民共和国の国境で勃発した両国警備隊の交戦をきっかけに、満州国を支配していた日本と、モンゴルと相互援助協定を結んでいたソ連がそれぞれ軍を投入。大規模な戦闘に発展した。(中略)モンゴルではハルハ河戦争と呼ばれる。〉
(『デジタル大辞泉』小学館)
おわかりだろうか。日本軍が侵攻したのはソビエト連邦では無く、モンゴル人民共和国のノモンハンだったのだ。つまり、モンゴル側から見れば突然日本が国境を越えて侵略してきたことになる。当時世界でももっとも強力な陸軍の一つである日本軍が攻めてきたのだ。まさに、国家存亡の危機である。このときのモンゴル人民共和国の首相がチョイバルサンであった。
しかし、モンゴル軍では到底強力な日本軍に対抗することはできない。そこを「助けてやった」のがソビエト軍であり、スターリンであったのだ。モンゴル人民共和国は、スターリンのおかげで日本の侵略をはね除けたことになる。これが「スターリンには、世話になった。という、東洋的な義理人情とつながり」である。
また、冒頭に述べた「大きなツケ」とはこのことで、日本側に味方する可能性もあったモンゴルを日本は敵に回してしまった、ということである。その理由は、言うまでも無く「バボージャブのハシゴを外す」という「東洋的な義理人情」を欠いた行為に走ったからである。