「統帥権の魔術」

 しかし、お気づきのように多くの日本人がこのことを認識していない。俗に「殴ったほうはそのことを忘れるが、殴られたほうはいつまでも覚えている」と言うが、まさにこれがその実例かもしれない。『モンゴル紀行』のなかで司馬遼太郎は、この事件いや戦争のそもそもの発端が、モンゴル人民共和国の騎兵隊が馬に水を飲ませにハルハ河にやってきたことにある、としている。

 モンゴル人にとっては、それこそ何千年も続いている当然の行為だったのだが、ソビエト連邦に対抗するための緩衝地帯であり補給地でもある満洲国を建国(1932年)し実質的に支配していた日本は、これをソビエトの意を受けた国境侵犯つまり挑発と見て「断固排撃」する措置をとった。

〈一個中隊の軽爆撃機をモンゴルの領内にまで飛ばし、モンゴル軍の包(テント式住宅。引用者註)二十個を爆撃してしまったのである。関東軍にすれば、頻発する国境紛争を「断固たる意志」を示すことによって終熄させるつもりもあったらしい。しかし客観的にみればこれほど危険な火遊びはなく、またこれほど重大な「国家行為」をやるのに、現地軍がみずから判断し、みずからやったというような例は、当時、日本以外のどの国にもない。例の統帥権の魔術というべきものであった。〉
(『街道をゆく5 モンゴル紀行』)

 ここで司馬が「統帥権の魔術」と呼んでいるのは、大正から明治にかけて軍部が軍をどのように動かすかということは天皇の統帥権に属し、それに内閣や国会が口を出すということは統帥権干犯(侵害)だという理屈をつけて、軍部独走の国家になっていったことを示している。だから陸軍が、伊藤博文も中国の領土と認めていた満洲(中華民国から見れば東三省)を勝手に軍事制圧したことを、陸軍は「満洲事変」と呼ばせたのである。

 そしてモンゴル人民共和国へのあきらかな侵略戦争も、「ノモンハン事件」と呼ばせることに成功した。もちろん軍部大応援団のマスコミ(新聞)の後押しあってのことだが、官僚的理屈を述べれば「満洲」も「ノモンハン」も大日本帝国は宣戦布告していないから「戦争では無い」ということだ。まさに「マジック」である。「日本以外のどの国」にもできないことが、軍部(とくに陸軍)にできるようになってしまったということだ。

 だからこそ、この戦争はとりあえず「ノモンハン事件」と呼ばねばならないのだ。もちろん、実際にはモンゴル人民共和国への侵略戦争であったことは認識しなければいけないが、モンゴル側のようにこれを「ハルハ河戦争」と呼んでしまえば背後にある「統帥権の魔術」が消されてしまう。歴史の「記述」では無く「分析」の段階で「侵略戦争」と呼ぶべきだとしても、まずは正確に事実を記述するのが歴史を扱う者として正しい態度である。

 もちろん「ノモンハン事件」と呼んだからと言って、それは先進国では到底考えられない軍部の専横を支持したことにはならない。あたり前の話だ。だから、これから先の話になるが一九四一年(昭和16)に日本が始めた戦争は、大東亜戦争と呼ばねばならない。それが歴史的事実だからだ。それを「アジア・太平洋戦争」などと呼べば、その背後にある複雑な事情が消去されてしまう。

関連キーワード

関連記事

トピックス

大谷翔平
【大谷翔平“グラウンド外での伝説”】羽生結弦とはLINE友達、パリピ体質で嫌いなタイプは“テンションが低いやつ”、「17番のロッカー」に直筆サインで一騒動 
女性セブン
『おしゃれクリップ』(日本テレビ系)
《放送50周年で歴代MC集結》『おしゃれ』シリーズが昭和から令和まで愛され続ける理由 
NEWSポストセブン
3度目の逮捕となった羽賀研二
《芸能人とヤクザの黒い交際》「沖縄のドン」から追放された羽賀研二容疑者と弘道会幹部の20年の蜜月 「幹部から4億円を借りていた」
NEWSポストセブン
寄木細工のイヤリングと髪留めが「佳子さま売れ」に(時事通信フォト)
佳子さまのイヤリングが「おしゃれ!」でまたも注文殺到 訪問先の特産品着用され想起される美智子さまの心配り
NEWSポストセブン
ホームランを放ち50-50を達成した大谷翔平(写真/AP/AFLO)
大谷翔平の“胃袋伝説”「高校時代のノルマは“ご飯どんぶり13杯”」「ラーメン店でラーメン食べず」「WBCでは“ゆでたまご16個”」 
女性セブン
自民党の新総裁選に選出された石破茂氏(Xより)
《石破茂首相が爆誕へ》苦しい下積み時代にアイドルから学んだこと「自分の意見に興味を持ってもらえるきっかけになる」
NEWSポストセブン
内村光良のデビュー当時を知る共演者が振り返る
【『内村プロデュース』が19年ぶり復活】内村光良の「静かな革命」 デビュー当時を知る共演者が明かしたコント王の原点
週刊ポスト
歌手・タレントの堀ちえみ(左)と俳優の風間杜夫(右)
【対談・風間杜夫×堀ちえみ】人気絶頂期に撮影された名作『スチュワーデス物語』の裏側「相手が16才の女の子だろうと気を抜けないと思った」 
女性セブン
若林豪さんにインタビュー
『旅サラダ』卒業の神田正輝が盟友・若林豪に明かしていた「体調」「パートナー女性」「沙也加さんへの想い」《サスペンスドラマ『赤い霊柩車』で共演30年》
NEWSポストセブン
石破茂氏の美人妻(撮影/浅野剛)
《新総裁》石破茂氏が一目惚れした美人妻が語っていた「夫婦のなれ初め」最初のプロポーズは断った
NEWSポストセブン
3年前に出所したばかりだった
《呼び名はチビちゃん》羽賀研二とそろって逮捕された16歳年下元妻の正体、メロメロで交際0日婚「会えていません」の嘘
NEWSポストセブン
【ドル円週間見通し】ドルは底堅い値動きか 今週発表の米雇用情勢にも注意
【ドル円週間見通し】ドルは底堅い値動きか 今週発表の米雇用情勢にも注意
マネーポストWEB