「師匠に繋がれていた管が外され、先生が時計を見て朝8時頃に『ご臨終です』と。師匠の最期を奥さんと一緒に立ち会い、奥さんは泣きながら師匠の顔を撫でて、『笑助くんも触ってあげて』と。それまで僕はずっと手を握り、弟子が師匠の顔を触れるなんて……と躊躇しましたが、尊敬する師匠を前にたまらず、顔を触らせていただきました。いろいろな言葉を掛けたかったのですが、泣きながら『師匠、ありがとうございました』の感謝の言葉しか出てきませんでした」
生前、笑瓶さんは誰にも語ることなく、長年に渡って福祉施設への寄付を続けていた。笑瓶さんの死後、大阪府肢体不自由者協会の理事長は次にようにコメントしている。
《昭和57年から「渡士洋」の名前で毎月多額のご寄付をいただいておりました。その期間は、40年にもおよびました。(略)笑瓶さんが27歳という若さで、寄付をしようと思って、実際に寄付を継続されたことは、感謝しかないです》
笑助氏が振り返る。