ルーズベルトの「棍棒外交」
ところが、驚くべきことに革命翌年の一九一八年一月、十月革命(10月はロシア暦で、英米では11月)のわずか二か月後、イギリスやフランスから「日本よ、ロシア領内に出兵してくれ」という要請が来た。そればかりでは無い。アメリカもそれに同意し、最終的には日米共同でシベリアに出兵することになったのだ。日本は欣喜雀躍したのは言うまでも無い。では、なぜそういう事態になったのか?
まず第一に、英仏ともに世界最初の共産主義革命であるロシア革命がヨーロッパ全域に波及することを恐れていた。ブルジョアジーによる帝国主義の国家である英仏は、「それを悪」とするプロレタリアート(ロシアではボリシェビキ)の標的になりやすい。前にも述べたように、この時代には共産主義は帝国主義という「悪」を根本から変革する理想の思想であり、正義感に富む多くの若者の熱い支持があった。だからこそ英仏は、ロシア国内の保守派つまり白軍と組んで革命を潰してしまおうと考えたのだ。
とくに、さまざまな閣僚を歴任し、後にイギリスの首相となるウィンストン・チャーチルは、最後の最後まで白軍を援助した。フランスと違ってイギリスはあくまで王国であり、皇帝一家を処刑したソビエト共産党とはその意味でも相容れないと考えたのかもしれない。もっとも、皮肉なことに第二次世界大戦時においては、チャーチルは最大の強敵大日本帝国を倒すためにソビエト共産党のヨシフ・スターリンと手を組むことになる。それはまだだいぶ先の話だが。
第二に、英仏はこのときもまだ続いていた第一次世界大戦において、ドイツに決定的な打撃を与えようと考えた。ロシア帝国は最終的に十月革命でソビエト連邦になったのだが、その時点で第一次世界大戦からは手を引いた。しかし、英仏にとってはソビエト連邦が「温存」されるよりは、白軍の手で新しいロシアが建国されたほうが都合がいい。革命を潰したうえに、新ロシアを味方にすることができるからだ。
ただ、白軍の勢力の強いバイカル湖以東の地に兵を送るのに一番都合がよいのは、一に日本、二にアメリカであった。日本は日本海をはさんでロシアと対峙しているし、アメリカは大西洋と太平洋の双方に面し両洋に軍を展開できる国である。西海岸から太平洋を渡ればすぐにアジア、という利点がある。それゆえ、英仏から見れば日米に出兵を要請したほうが効率的である。
アメリカにはアメリカの事情があった。アメリカはウッドロウ・ウィルソン大統領の下、当初はモンロー主義の立場を取り中立国であった。モンロー主義とはアメリカ第五代大統領ジェームズ・モンローが内外に宣言した外交原則であり、「アメリカ合衆国はヨーロッパ諸国に干渉しない代わりに、アメリカ大陸に対するヨーロッパ諸国の干渉も拒否する」というものだった。一八二三年のことだ。
後のアメリカのことを考えればずいぶん消極的に見えるかもしれないが、この時点では独立戦争(1775年)こそ終わっていた(モンローも独立戦争に従軍している)ものの、アメリカの領土はボストンやニューヨークを中心とした東海岸だけである。最終的にアメリカ大陸からスペインの勢力を排除した米西戦争(1898年)どころか、西海岸のロサンゼルスやサンフランシスコをメキシコから奪った米墨戦争(1846年)もまだ先の話で、むしろ「小国アメリカ」としては「ヨーロッパで列強のやることには口を出さないから、こちらも自由にさせてくれ」といった感じの「宣言」だったろう。
しかし、米墨、米西の二大戦争の勝者となった後のアメリカは違う。とくに西海岸に進出したことは大きく、アメリカがペリー艦隊を派遣して日本に開国を迫ったのも、西海岸からなら太平洋を渡ってすぐアジアに進出できるからだ。当然そのような大国になれば外交方針も違ってくる。