読者は、チェコという国をどのように認識しているだろうか。
団塊の世代なら、チェコというと「チェコスロバキア」という国名が反射的に浮かび上がってくるのではないか。ソビエト連邦の「属国」としての東欧六か国の一つであり、そこから「独立」した後も「チェコスロバキア連邦共和国」であった。
その国がチェコとスロバキアの二つの共和国に分かれて現在に至るわけだが、そもそもチェコ人とスロバキア人は同じスラブ系ではあるが別の民族だった、しかし巨大な帝国からの支配を嫌う勇猛果敢な独立心の高い人々であり、汎スラブ主義(スラブ人同士が団結して国家を作ろう)の影響を受け、チェコとスロバキアが力を合わせて帝国支配に抵抗しよう、という機運が高まっていた。
ただ「本家」の汎スラブ主義は、ロシアを盟主としてスラブ人が団結するというもの(お気づきのように、これはソビエト連邦の国家運営とも、現在ロシア共和国の独裁者プーチン大統領の政治思想にも影響している)だったが、チェコ人もスロバキア人もそんな形はまっぴらごめんであった。本来ならば互いに組むこと無くそれぞれの国家として独立したかったのであり、その夢は現在実現されたが当時は強大な帝国の力に対抗するにはチェコとスロバキアが同盟するしかない、と考えたわけだ。
日本の歴史にたとえれば、ちょうど今川家に支配されていたころの松平家(のちの徳川家)の立場によく似ている。松平家は「今川連邦」の支配下にあったが、なんとか独立したいと考えていた。彼らは勇猛なので「今川連邦」の尖兵として酷使されていた。恨みは深い。ところが、織田信長が今川義元を倒してくれたのでさっそく独立した……。同じことである。
チェコ軍団(約4万人。正確にはスロバキア人も含めた軍団)は、オーストリア・ハンガリー帝国の尖兵として酷使されていた。ところが、その帝国が英・仏・露の連合軍に降伏し、形の上ではチェコ軍団は隣接するロシア帝国の捕虜となった。だが、武装解除されたわけでは無い。革命寸前のロシア帝国にそんな能力は無かった。そうこうするうちにソビエト連邦が誕生し、ドイツと単独講和して第一次世界大戦から手を引いた。
これはチェコ軍団からすれば、捕虜の身から解放されたということである。チェコ軍団は待ってましたとばかりに、オーストリア・ハンガリー帝国から独立して自分たちの国を建国したいと表明した。これに目をつけたのが英仏である。
ロシア帝国がソビエト連邦になって「連合国」から離脱したことによる西部戦線の戦力低下を、早急に補う必要があった。そこで、このチェコ軍団を援助して西部戦線で戦わせればいい、ということになったのだ。だが、問題はどうやってチェコ軍団を「ロシア」から西部戦線に移動させるか、である。
「ロシア」の西隣りがドイツである。話は簡単のようだが、いかに勇猛果敢なチェコ軍団とは言え、補給も援軍も無しに単独でドイツを攻撃することは不可能だ。かと言って一番近いフランス軍と合流するためにはドイツの領域内を敵中突破しなければならない。関ヶ原のときの薩摩勢の「退き口」でもあるまいし、そんな無謀なことをすれば殲滅される恐れがある。
だが地球は丸いのだから、西では無く東に向かっても遠回りではあるが、英仏軍と合流できる。具体的にはシベリア鉄道を使ってバイカル湖以東に移動し、ウラジオストクから船で英仏に向かう手だ。