ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十四話「大日本帝国の確立IX」、「シベリア出兵と米騒動 その13」をお届けする(第1436回)。
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一九一七年(大正6)は大波乱の年で、二月にドイツが大西洋から地中海で無制限潜水艦作戦に踏み切った。前回述べたように、英仏への補給を断つために民間商船でも撃沈する、というものである。
これで自国民に犠牲者が出たことに激怒したアメリカは、第一次世界大戦参戦に踏み切った。日本は同盟国のイギリスから海軍の派遣を要請された。潜水艦の天敵である駆逐艦でUボートをやっつけてくれということで、日本はこの見返りに青島の戦いで獲得したドイツ利権の継承をイギリスに認めさせた。
この段階で日本は第一次大戦の「同盟国」である英・仏・露に青島の権益継承を認めさせたわけだが、参戦してきたことによって新しく「同盟国」となったアメリカとの調整が必要になり、外相経験者の石井菊次郎を特命全権大使としてアメリカに派遣した。アメリカ側からも要請があったようだ。この背景には、「対華二十一箇条要求」をアメリカが日本の中国への侵略を意図するものだと感じていたことがある。
これもすでに述べたように、日本は「英霊の安らかな眠り」を求めていただけなのだが、そんなことはアメリカにはわからない。また、桂―ハリマン協定を一方的に放棄され、「門戸開放」を反故にされた「恨み」もある。こう言えばおわかりのように、石井とアメリカの国務長官ロバート・ランシングとの交渉では、日本は中国における特殊権益をアメリカが認めるよう迫ったのに対し、アメリカは従来の主張である中国の領土保全と門戸開放つまり中国進出の機会均等を強く求めた。
交渉は双方の主張が平行線をたどり難航したが、結局は「アメリカが日本の権益を認め、日本はアメリカの機会均等原則を尊重する」などという形の玉虫色の「石井―ランシング協定」となった。どこが「玉虫色」なのかと言えば、日本は対華二十一箇条で中国から獲得した権益をすべてアメリカが認めたと考えたが、アメリカ側は日本の経済権益は認めたが政治権益は認めない、と考えたからだ。
内政干渉が侵略の第一歩であることは人類の常識である。だからアメリカは日本の獲得した権益は経済的利益にとどまり政治的権利は含まれないと解釈したのだが、日本はそう考えずその点があいまいになっていた。それでも協定が成立したのは、第一次世界大戦がまだ終わっていなかったからだろう。「いまは同盟国」なのである。
そうこうするうちにロシアでは革命が起こって帝国が崩壊し、十月革命でソビエト連邦が誕生した。正確に言うと、この時点の正式な国号は「ロシア社会主義連邦ソビエト共和国」で、周辺の国家を統合して「ソビエト社会主義共和国連邦」となったのは内戦終了後の一九二二年(大正11)である。一九一七年時点で、ソビエト共産党は白軍を殲滅するためには世界大戦などしている場合では無いと、ドイツとの単独講和に踏み切った。これは英仏から見ると、同盟軍ロシアの戦線離脱によって西部戦線が手薄になることになる。そこでドイツ軍の反転攻勢を怖れた英仏が目を付けたのが、チェコ軍団であった。