順調に発展していた「満洲国」
なぜ失敗に終わったのか? 前回の最後で述べたように、第一に味方する勢力には「統合のシンボル」が絶対に必要なのに、それが無く白軍を統一できなかった。第二に、単なる軍事介入(あるいは占領)では無く、その地の人民が支持する国家としてのビジョンを示し行政機構を整えるべきなのに、それが影も形も無かった。では、形のうえでは「清朝の再興」であった満洲国とは、いかなるものであったか?
〈昭和七年(一九三二)、満州事変により、日本軍が中国の東三省(現在の遼寧・吉林・黒龍江省)と東部内蒙古の熱河省にわたってつくりあげた傀儡(かいらい)国家。関東軍が清朝最後の皇帝であった溥儀を執政にたてて建設。同年、日本政府は日満議定書を結んで満州国を承認。同九年以降、帝政となった。首都は新京(長春)。五族協和・王道楽土を建国理念としたが、実権はすべて日本が握り、昭和二〇年(一九四五)、日本の第二次世界大戦敗北とともに崩壊した。〉
(『日本国語大辞典』小学館刊)
おわかりだろう。満洲国には「新ロシア帝国」には無かった「統合のシンボル」として「清朝最後の皇帝であった溥儀」がいたし、「五族協和・王道楽土」という「国家としてのビジョン」もあった。ここには記載されていないが、「行政機構」も整えられていた。国務院である。これは満洲国建国とほぼ同時に設置され、「実権はすべて日本が握」ったもののきわめて効率的で優秀な行政機関だった。
戦後、首相も務めた岸信介(1896~1987。安倍晋三元首相の祖父)は、このときは商工省官僚だったが国務院に派遣され辣腕をふるった。結局、満洲国は「日本の第二次世界大戦敗北とともに崩壊」はするのだが、それまでは順調に発展していた。「五族協和」とは「日・朝・満・蒙・漢」つまり日本民族、朝鮮民族、満洲民族、蒙古民族、漢民族が共同して国家を盛り立てていこうというもので、それで国家は「王道楽土」つまり西洋の「覇道」では無く、東洋の「王道」に基づいた「楽土(この世の楽園)」になるというわけだ。
ちなみに、満洲国は日本の他の部分の敗戦によって崩壊したのであって、満洲国自体が反乱等によって自壊したのでは無い。占領行政はうまくいっていた。おわかりだろう、シベリア出兵という大失敗の経験が見事に生かされているというわけだ。
それにしても、満洲事変から満洲国建国そして国務院創設立等の一貫的スケジュールは、電光石火とも言うべきスピードである。つまり、事前に軍部と官界が連携して周到な準備が進められていたということだ。じつは、電光石火と言えば事変当初における軍の動きもそうだった。中華民国軍側から見れば隙を突かれて、あっという間に自国の領土を占領されてしまったわけだが、なぜそこまで陸軍の行動は迅速だったのか。これもじつは、シベリア出兵の教訓であるのだ。
日本がシベリア出兵に踏み切ることができたのは、最終的にはアメリカが英・仏・日側に味方して第一次世界大戦に参戦したからである。ロシア革命という内戦は日本にとって「天佑」だったのに、陸軍が最後までシベリア出兵に慎重だったのは、アメリカとこれ以上対立を深めたくなかったからだ。そのアメリカが、共にドイツを討つために表向きは「チェコ軍団の救出」という名目で日本のシベリア出兵を認めた。
これで日本が喜んだことはすでに述べたが、じつは話が進むうちに陸軍は大きな不満を抱くようになった。このとき、日本は寺内正毅内閣だったのだが、寺内首相は英米協調路線を遵守し、出兵する範囲や兵力について常にアメリカ側の意向を尊重する姿勢を取ったのである。一方、アメリカ側は「チェコ軍団の救出のため一番近い日本が最大級の出兵をすることは認めざるを得ないが、日本がこれ以上ユーラシア大陸東部に勢力を拡張するのは望ましくない」と考えていた。