それゆえ日本は、派遣された現地部隊から「この兵力では赤軍と対抗できない。増援を望む」という要請が来ても、アメリカの意向を忖度して無視するケースが多かった。
これを陸軍の側から見れば、「戦力の逐次投入」になる。これについては前に日露戦争のところでも説明したが、せっかく兵力があるのにいっぺんにでは無く小出しにして戦場に投入することで、敵としては撃破しやすくなる。軍人なら誰でも知っているもっとも稚拙な戦術なのである。しかも、その稚拙な戦術を実行している内閣の首班は、陸軍大将の寺内正毅だ。
もちろん寺内には寺内の戦略があった。戦術的には稚拙でも、大きな国家戦略のなかではあえてそうしなければならないこともある。この場合がまさにそれで、当時の日本には「アメリカとの対立を深めるべきではない」という大戦略があった。寺内正毅は『逆説の日本史 第二十六巻 明治激闘編』で厳しく批判したように、頭の固い杓子定規な軍人なのだが、それでも長州奇兵隊の生き残りで田原坂の戦いで負傷し、日清、日露というまかり間違えば日本が滅びたかもしれない戦いをも経験している古強者だ。日本が大国になってから育った「怖いもの知らずの若僧」とは違う。だから「アメリカの意向」は忖度せざるを得なかったのである。
では、逆にこれを「陸軍の若手将校」の立場から見てみよう。すると、こうなる。「シベリア出兵という『戦争』は勝てる戦だった。にもかかわらず負けた。その理由は、先に述べたように第一に白軍側に統合のシンボルが無かったこと。第二に占領地域の民衆に対して国家としてのビジョンを示さなかったことだが、戦術的に言えば電撃的に大軍を投入し一気に勝負を決めればよかったものを、戦力の逐次投入という素人でもわかるようなミスをして勝てる戦を失った」ということになる。
では、今後同じようなチャンスが来たら、どうすればいいか? 「統合シンボルの確立」「国家ビジョンの提示」は当然だが、戦術的には「大軍の一気投入」を実行すべきである。それゆえ、その電撃作戦の障害となる要素、具体的に言えば「アメリカへの忖度」などはせず、「中央政府のなまぬるい判断」、言葉を換えて言えば「不拡大方針」など一切無視して、現地部隊が独断専行すればいい、ということになる。
満洲事変とはそういうものであった。シベリア出兵が大失敗に終わってから満洲事変までは、わずか数年である。日本を取り巻く状況は変わらず、逆に大失敗を分析し成功に導くべくプランを練るには、じゅうぶんな時間があった。満洲事変の「二人の立役者」のうち、板垣征四郎大佐はシベリア出兵当時陸大を卒業したばかりで、参謀本部支那課にいた。また、相棒の石原莞爾中佐も陸大を卒業したての若手将校だった。二人は「もし支那で同じような好機が来れば、絶対に成功させる」と思っただろう。それが人間社会というものではないだろうか。
(第1439回に続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2024年12月20日号