「泥の海」に浮かぶ「箱舟」
それを語るには、まず日本の歴史の常識をあらためて認識してもらわねばならない。まず認識していただきたいのは、「日本は木造文化の国」であることには誰しも異論が無いだろうが、なぜそうなったのかということである。
正直言って私もいまから三十年近く前に『逆説の日本史』の古代編を書いたころには、まったく気がついていなかった。数十年たってようやく気がつき、YouTubeの『井沢元彦の逆説チャンネル』にアップし、『真・日本の歴史』(幻冬舎刊)にも書いたので詳しくお知りになりたい方はそちらをご覧いただければいいのだが、簡単に言えば「日本が木造文化の国になったのは、森林が豊富だからでは無い。世界唯一と言ってもいい、地震と共存している国だから」である。
日本以外の国では、古代から建築と言えば「レンガで建てるもの」であった。レンガは素人でも大量生産が可能で、レゴブロックのようにどんな建物でも造れる。さらに火災にも強い。一方、木造建築は木材を建材に加工する手間も大変だし、なにより火災に弱いという致命的欠点がある。にもかかわらず、日本人は古代から木造建築だけに専念し、中国や朝鮮半島ではあたり前のレンガ建築を採用しなかった。
なぜなら、レンガ建築は地震にきわめて弱いという欠点があるからだ。だから、われわれ日本人は早い段階でレンガ建築を捨てた。にもかかわらず、そういう歴史を忘れてしまった明治の日本人は、欧米を見て「レンガ建築という便利なものがあるじゃないか」と考え、首都東京に日本初の高層ビルである「凌雲閣(浅草十二階)」や「一丁倫敦(レンガ建築のビル街)」など大量にレンガの建物を造ってしまった。それが灰燼に帰したのが関東大震災である。
私がもし明治の初期に生きていたら、歴史家として「日本人よ、地震国日本でレンガの建物など造ってはならない」と警告したところだろう。だが、当時の日本には部分部分の専門家である歴史学者はいたが、古代から現代まで日本史を見ている歴史家は残念ながら存在しなかった。では、われわれ日本人はどのような建物を造って地震と共存してきたのか? 京都の三十三間堂(蓮華王院本堂)について述べた、次の文章をお読みいただきたい。
〈このお堂は東に面し、見事な直線で設計され、その長さは一二八メートルもある。そして、この直線は現在でも、いささかも狂っていない。台風や地震などの多くの異変に、七百年を越える歳月を耐えてきたのである。
どうして、そのような高度な技術が可能だったのだろうか。〉
(『梅干と日本刀―日本人の知恵と独創の歴史』樋口清之著 祥伝社刊)
この『梅干と日本刀』は、日本史を語る者なら必ず読むべき畢生の名著なのだが、この「高度な技術」とは具体的にはどうするのか。
〈日本人には独特な自然感がある。“自然には逆らわない”という考え方である。現代の建築技術は、まず地盤を固めてから建てる。ところが、動かないように固めてしまうと、何百年という長い歳月の間には必ず陥没が起こったりする。そこで、地面を粘土や砂利など弾力性のある土壌で固める。地震があった場合には、土壌に弾力性を持たせておけば、地震エネルギーが放散されたあとは、土の粒子が元の静止した場所に帰る。ということは、地盤が地震以前の状態に復元するということである。いうならば、波に浮かぶ筏のようなものである。〉
(前掲書より一部要約して引用)