学校の「JAP CAVE」でたむろしていた3人組(秋元氏提供)
アメリカ人で日本人
エンゼルス時代、大谷翔平の隣で流暢な英語を披露し、軽妙な日本語で通訳をこなした水原。その“青春時代”はあまり知られていない。中学、高校の同級生たちは一様に、水原の印象についてこう口を揃える。
「静かな人だった」
クラスでは目立つ存在ではなかったが、ごく少数の親しい友人がいた。その1人で、カリフォルニア州在住の会社員・秋元智光(40)は、水原とシャパラル中学、ダイヤモンドバー高校で一緒だった。
「お互い日本語ができるのが『珍しい』となって、一平とは徐々に仲良くなりました。同じ移民でも、日系3世とかは日本語ができないんです。でも一平とは、どっちの日本語がうまいかを競い合っていました」
秋元自身も幼くして東京から米国へ移住したため、アイデンティティーをめぐって一平と共通の悩みを抱えていたと言う。
「アメリカに住んでいるからアメリカ人でもあり、日本人でもある。周囲に日本人が少なかったから、“我々っていったい何なんだろう?”と思うようになりました」
高校時代の昼休みは、秋元と水原、そしてもう1人の仲良し3人組で、校内で人通りが少ない階段の下にたむろし、そこで昼食をとった。光と影の入り方が洞窟(cave)のような場所だったため、自ら「ジャップ・ケイブ」と呼んでいた。
「『ジャップ』という言葉に嫌な感情はなく、語感が良いからという感じでつけただけです。逆にそれを自分たちの言葉にしようみたいな、黒人文化に似た、ある種の憧れがありました」
水原たちはアメリカ社会に身を置きながら、常に日本を意識していた。それを象徴するのが、日本のサブカルチャーにハマっていたことだ。『こちら葛飾区亀有公園前派出所』や『ONE PIECE』、高校野球をテーマにした『ROOKIES』などの漫画、音楽ならビジュアル系のバンドだった。秋元が当時を懐かしそうに振り返った。
「一平はGLAYがめっちゃ好きでした。X JAPANのHIDEは尊敬していて、亡くなった時にかなりショックを受けていました。カラオケではSMAPの『夜空ノムコウ』の点数を競っていました。エレキギターやアンプも買って家で弾いていましたね」
当時感じた水原の人柄を、秋元はこう表現した。
「不特定多数の友達を作るほうではなく、自分が好きな人だけを周りに集めるタイプでした」
そんな水原にはこの頃から密かに、野球への熱い思いが芽生えていた。