巨人から中日に移籍後、2シーズン目を迎える中田翔(時事通信フォト)
屈辱の3年連続最下位となった2024年シーズンの中日ドラゴンズ。特にオールドファンが悔しがったのは、昨季は宿敵・巨人に優勝を奪われたことだ。新書『人生で残酷なことはドラゴンズに教えられた』の著者である拓殖大学海外事情研究所教授の富坂聰氏もそのひとり。そんな富坂氏が同書で力を込めて綴ったのは、中日へ移籍した後に再び花を開かせた「元巨人選手」たちの「リベンジ物語」である。さて、2024年から中日に移籍した中田翔選手は、今季、その系譜を継げるだろうか(シリーズ第3回。第1回から読む)。
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前2回の記事でいったいどれほどの日本国民を(インド国民もか)敵に回したことかと考えると怖くなるので、次の話題に移ろう。
近藤貞雄監督の話だ。
戦争を体験した近藤は、終戦前後、巨人のユニフォームを着る。投手として1946年に23勝を挙げる大活躍をした。しかも投げない日には外野を守るなど、いまでいうところの「二刀流」でチームに貢献した。大谷翔平選手のようなスタイルが珍しくなかった時代の話だ。
それで23勝もしたのだから、間違いなく大投手だ。巨人での未来も明るかったはずだ。
しかし、運命は残酷だ。その年の秋、近藤に不幸が襲いかかる。
キャンプ地・松山市で散歩中、進駐軍のジープにはねられそうになり、慌ててよけた拍子に側溝に転落。手をついた場所に散乱していたガラス片で右手中指を負傷し、ボールがうまく握れなくなってしまうのだ。投手にとって致命的なケガだった。
1947年は0勝。巨人を自由契約になってしまった。
もうお分かりだろう。そうです。与那嶺(要。元選手で監督)と同じく、失意の近藤を拾ったのが中日ドラゴンズだったのである。
近藤も並みの選手ではない。中指の損傷を逆手にとって、三本指で投げる疑似チェンジアップ(パームボール)を極め、ケガから4年後の1950年には二桁勝利を挙げたのだ。この復活劇は映画化され、近藤本人も出演した。
ちなみに与那嶺は1974年に、近藤は1982年に、それぞれ中日を率いてリーグ優勝に導き、見事なリベンジを果たしている。与那嶺は王・長嶋を擁する巨人のV10を阻止し、近藤はプロ野球界で初めて投手の分業制を確立するという功績を残した。
完璧なストーリー、のはずなのに、この話が通じるのは中京地区のオッサン限定だ。