1982年に中日をリーグ優勝に導いた近藤貞雄監督。後に大洋、日本ハムでも監督を務めた(産経新聞社)
これがもし、某在京球団の選手の物語だったなら、いや、阪神の物語だったら、きっと全国に広がり、栗良平の『一杯のかけそば』に勝るとも劣らないほど日本人の涙と感動を誘い、語り継がれたはずだ。そんな考えも、ドラファンに染みついた宿弊なのか。
いや、これからドラゴンズが優勝しまくればいいんだ。そうなりゃ近藤監督の復活劇にも再びスポットライトが当たるかもしれない。もう、遅いかもしれないけど。
数年後には、NHKの朝ドラになっているかもしれない。ドラマ化が決まったら、絶対に観るぞ。『鳩子の海』『あまちゃん』以来、ちゃんと朝ドラと向き合える日々が戻ってくるかもしれない。
「再生工場」の本家はドラゴンズ
近藤だけでなく、谷沢健一選手のアキレス腱痛からの復活劇もある。ドラゴンズの元祖剛速球・鈴木孝政投手も速球派から軟投派に転向して見事に復活を果たしている。
「再生工場」は野村克也監督の代名詞とされているが、本家はドラゴンズだ。
当時の少年ドラファンの頭の片隅には、ドラゴンズには「弱っている人に手を差し伸べ、再生し、再び栄冠をつかませる球団」といったイメージがあった。
もちろん、その反対側では“新人潰し”っていうありがたくない評価もあったりするけど、その話はいったん横においておく。
スポーツ選手の挫折と再生の物語は、昭和の若者は大好きだ。不良が熱血教師と出会って更生する感動劇とどこかシンクロする。昔は不良もゴロゴロいたし、熱血ぶる教師もゴロゴロいた。いまの日本映画に、不治の病を抱える10代のヒロインがインフレになっているのと同じくらいあふれ返っていた。
1988年、そのドラゴンズ再生工場に、大きな期待を背負って入荷されてきた選手がいる。ジャイアンツの元エース、西本聖投手だ。
掃除の時間、ほうきをバットに、丸めたテスト用紙を打つ“野球”で、クラスに一人は西本を真似て足をピョンと高く上げるヤツがいたが、たいていはバランスを崩して暴投になった。暴投の確率は、ドラゴンズの三沢淳投手のアンダースローを真似るケースと同じくらい高かった。
西本は巨人で通算126勝を挙げ、ライバル・江川卓投手とジャイアンツのエースの座を競った選手だったが、放出時はすでに32歳。
「僕は巨人に捨てられた」という名台詞を残して、中日へと移籍してきた。もう、この時点で私の涙腺はゆるみかけているのだが、追い打ちをかけたのがドラゴンズの中尾孝義選手に対して、西本と加茂川重治選手という2対1の屈辱トレードだった。
ドラファンとしては、永遠にドラゴンズのホームベースを守ってくれると確信していた中尾を手放した球団と、星野仙一監督に対する複雑な思いを抱いたトレードだ。