1982〜85年に中日に在籍したモッカ選手。日本での通算打率は3割を超える(産経新聞社)
日本のプロ野球で活躍する外国人選手の出身国は多様だが、異色の新書『人生で残酷なことはドラゴンズに教えられた』の著者で、物心ついた頃からのドラファンである富坂聰氏(拓殖大学海外事情研究所教授)は、中日ドラゴンズの歴代外国人選手について「商社も顔負けのグローバル展開」と表現する。富坂氏がその多彩な顔ぶれを振り返る。(シリーズ第19回。第1回から読む)
オーストラリアにも進出
中日の助っ人といえば、私にとっての入り口はバート(・シャーリー)選手と(ジョン・)ミラー選手だ。バートは2年、ミラーは3年しかいなかったが、私が初めて見た助っ人だけに印象は強烈だ。2人とも元メジャーリーガー。バートがドジャースとメッツに、ミラーがヤンキースとドジャースに在籍したというピカピカの助っ人だ。
この後もジーン・マーチン選手、ケン・モッカ選手と、ドラファンに愛された助っ人が続いた。
なかでもモッカは、「日本に溶け込んだ外国人選手」という枠で、ドラファンや中京地方という範囲を超えて名前を覚えている野球ファンが案外多い。
振り返ればドラゴンズは、アメリカからの助っ人の獲得という点においてもまあまあの成果を得ていたようだ。それなのに、そのアメリカ・ルートを早々と見切り、アジアに目を向け、さらにはキューバにまで出向いて行ったのである。
商社も顔負けのグローバル展開だ。
この脱米入亜は、アジアの潜在力に目を向けたという意味で、バラク・オバマ大統領の「リバランス」「ピボット」戦略にも先んじている。ヒラリー・クリントンが『フォーリン・ポリシー』誌に「アジア重視」の論文を発表するよりも早く、アジア太平洋の価値を見抜いていたのがドラゴンズだ。
「それを言うなら、あいつを忘れたらあかんがや。ディンゴ」
そう酒間で口を挟んだのは、私の中学の同級生で地元・CBCテレビ元部長の堀場正仁氏だ。堀場氏はプロデューサーとしてドラマ『キッズ・ウォー』などを手がけた。
「ドラゴンズもとうとうオーストラリアまで手を伸ばしたかって。しかも『中日新聞』がデカデカと報じたときには、もう『中日新聞』取るの止めよかって思ったがや。案の定、まったく活躍せんかったしな」
そうだ、いたぞ、ディンゴ選手。本名はデーブ・ニルソンだ。
でも、オーストラリアでディンゴっていうと、あの野犬(タイリクオオカミの亜種)のことか? 登録名、狙いすぎだろう。オセアニアの海にはグレート・ホワイトやヒョウモンダコみたいな怖い生き物がいるのに、陸地はディンゴとかタスマニアン・デビルとか、やや“格下の猛獣”しかいない。
まぁ、誰でも彼でも成功するわけじゃない、って教訓。ちなみに、ドラゴンズにはディンゴよりはるかに有名な“オーストラリア出身選手”がいるけれど、その話はまた改めて。
中日の歴史を彩る万国博覧会のような選手たちを肴にドラファンたちが酒を飲めば、やっぱり話題になるのが、「どの助っ人が好きだった?」という話題だ。
この質問は答えづらい。好きか嫌いかではなく、甲乙つけがたし、だから。