2度目の先発登板となった横浜DeNA戦で2回6失点を喫した
「投手・田中将大」が生まれた瞬間
奥村は市立尼崎高校を卒業後にオリックスに打撃投手として入団した経歴を持ち、1994年に当時の日本記録となる210安打を達成したイチローの専属打撃投手を務めたことから、「イチローの恋人」と呼ばれた。
宝塚ボーイズでも捕手を希望した田中だったが、投手に挑戦したのはプロ野球の世界を経験した奥村の進言があったからだ。
「指先の感覚が良く、肩甲骨を柔らかく使えていた。いざブルペンに入れてみると、球速も135km/hぐらい出ていましたし、カーブが良かったんですね。これは捕手と投手の二刀流でいけると」
しばらくして「もっと三振を獲りたい」と訴えてきた田中に対し、奥村は自身も得意としたスライダーを伝授する。
「当初はヒジを下げたサイドスロー気味のフォームで、リリース時に指先でボールを切る感覚、ボールを横回転させていく感覚を掴ませました。高校入学までに徐々にオーバースローに戻していけばいい、と」
早実と駒大苫小牧が初対戦した2005年の明治神宮大会で、早実ナインが一様に「ボールが消えた」と証言した高速スライダーはこうして生まれた。
高校進学を前に、田中には関西を中心とする高校野球の名門・強豪校から声がかかったが、当初は奈良の学校に進学を予定していた。ところが、その学校で監督が交代することになり、進路は頓挫。
そこで奥村が西武の打撃投手を務めていた時代に親交の深かった駒澤大学出身の高木浩之(元・埼玉西武)に相談すると、「駒大苫小牧の練習に参加したらどうか」とアドバイスされた。
北海道に足を運ぶと、甲子園未勝利ながら、駒大苫小牧の選手たちは目をギラギラさせて白球を追っていた。ベンチに入るメンバーだけでなく、補欠の選手たちにひとりも腐っている選手がいないことも、奥村の心を打った。そして、監督の香田誉士史は奥村に言った。
「彼をプロ野球選手にさせられなかったら僕が指導者としてダメですね……」
そして、練習終了後、主将の佐々木孝介(現・駒大苫小牧高校監督)が全選手を整列させ、田中に「今日はわざわざ北海道にまで来てくれてありがとう」と感謝の言葉を伝えた。
帰りの飛行機の中で、田中は奥村にこう告げたという。
「僕もあんなキャプテンになりたい」