日米通算198勝をあげている田中将大
2006年甲子園決勝の裏側
駒大苫小牧への進学を決めた田中だが、中学校のクラスメイトには内緒にしていた。その理由を奥村が振り返る。
「担任の先生から、『クラスメイトに合格を報告しようか』と提案されたらしいのですが、将大は『自分だけフワフワ浮かれていたらみんなに迷惑をかける』と答えたらしいのです。先生たちからの人望も厚かったと思います」
田中は2004年に北海道に渡り、その夏、同校は甲子園で全国制覇を遂げ、深紅の大優勝旗は初めて津軽海峡を越えた。秋に入り、新チームになると田中は背番号「2」で明治神宮大会に捕手として出場、マウンドにも上がった。そして、翌2005年夏の甲子園では最後の打者から150km/hのボールで空振り三振を奪い、胴上げ投手となった。
だが、3連覇が期待された最後の夏はウイルス性の腸炎に苦しみ、本来の調子を取り戻せないまま甲子園入り。1回戦・南陽工業(山口)に5対3で勝利したものの、奥村は駒大苫小牧の香田から「将大をなんとかして欲しい」と連絡が入る。
「練習日に西宮市内のグラウンドに到着すると、わざわざユニフォームまで用意してくれていました。その日、久々に将大とキャッチボールをしたんですが、なんだか苦しい表情をしているんですよ。技術的な話よりもまず、『最高の仲間と最高の舞台で野球やってんだから、もっと楽しまないとダメだ』と伝えました。するとブルペンに入ると吹っ切れたようなピッチングをしていたし、2回戦の試合後には『今日は楽しんで投げられました』とコメントしていましたね。あんな体調でよく(決勝で)斎藤佑樹投手と投げ合えたと思います」
イチローから三振
楽天に入団し、2007年の新人王を獲得した田中は2009年の第2回WBCの侍ジャパンに選出された。大会前の宮崎合宿で、奥村は驚きの光景を目撃した。紅白戦のマウンドに上がった田中が、イチローから三振を奪ったのだ。
「打撃投手というのは、打者に気持ち良く振ってもらうことも目的ですが、僕はイチローに対してはいつも真剣勝負していました。それでも僕は一度もイチローから空振りを奪えませんでしたから、やっぱり将大はすごいんだな、と」
田中が6失点を喫した横浜DeNAでは直球を見極められ、甘く入った変化球を痛打された。
「空振りを取れる球種がないですよね。変化球の曲がりも小さくなっている。日本で行われたイチローの引退試合を見に行った時に、イチローの打撃練習を見ると、全盛期からしたらバッティングフォームが180度変わっていた。バットが内からではなく、外から出ていた。動体視力がだんだんと衰えてきたイチローが、速いボールに対応するための工夫だろうと私は思いました。
たとえば将大も、スライダーの曲がりを大きくしたり、打者を惑わせるためにクイックモーションにも取り組んでみたり……そういう思い切ったスタイルチェンジをするタイミングもしれません」
田中のアマチュア時代を支えた恩師からの最後のアドバイスであり、エールだった。
■取材・文/柳川悠二(ノンフィクションライター)